五代友厚
日本の江戸時代から明治時代にかけての武士、実業家
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経歴
生誕と幼少期
五代は、薩摩藩の上級藩士で儒学者の五代直左衛門秀尭の次男として生まれる[4]。幼名は徳助または才助[5]。母はやす子、五代は兄の徳夫、姉広子、妹信子の4人きょうだいだった[5]。五代家は代々島津家に仕え、石高も禄高も高い由緒正しい家柄だった[6]。生家は、鹿児島城至近の城ケ谷村、現在の長田町にあった[4][5]
幼少期については不明な点が多い[7]。有名なエピソードとして、藩主の島津斉彬が、五代の父・秀尭に外国の地図の模写を命じ、友厚が外国語で書かれた地図を2枚模写し、1枚を島津斉彬に献上し、1枚を友厚が自室に飾ったというエピソードがあるが、近年の検証の結果、地図の模写は友厚ではなく、兄の徳夫が模写したというのが実情である[7]。地図を模写した時点で友厚の実兄・徳夫は13歳で、友厚は6歳ということを考えると、友厚によるものとは考えにくい[7]。
児童院にて修学し、その後10歳の時に、薩摩藩の藩校である造士館に就学する[7][5]。造士館の同窓生には、後に家老となる小松帯刀がいる[8]。
武士・役人として

安政元年(1854年)、マシュー・ペリーが浦賀沖に来航し天下は騒然となる[9]。同年、父の秀尭が死去し、藩の郡方書役に出仕することなる[10]。ペリーの来航など、外国船の来航により、幕府は長崎に海軍伝習所を開設し、五代は長崎海軍伝習所への留学命令が下される[9][10]。長崎海軍伝習所では、勝海舟、榎本武揚らと同窓生となる[11][12]。同伝習所において、航海術、軍事教練、外国語を学ぶ[4][11]。長崎海軍伝習所の教官であったヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケの日記には、勝海舟、松木弘安(寺島宗則、以降寺島宗則と記載)、榎本武揚を高く評価する一方、五代の名前は出ていない[11][13][14][12]。
1年半ほど長崎海軍伝習所にて学び、1858年に藩主の斉彬が死去したため、一旦薩摩藩に帰藩したが、再び長崎へと戻る[15][16]。以降、明治新政府に出仕するまで約11年間を長崎で過ごした[16] [10]。1862年1月、藩の船舶や軍艦の購入や管理を行う御船奉行副役を拝命する[17]。薩摩藩は、軍艦製造に着手したものの、性能は悪く、外国製の軍艦購入に方針転換する[15][17]。五代は長崎赴任中に、トーマス・ブレーク・グラバーと交流を深めており[4][16]、御船奉行副役拝命後、グラバーと共に上海まで行き、4万両の艦船買い付けを行った[17][10]。また、同年4月にも、上海に渡航する[17][10]。2度目の上海渡航時は、水夫として身分を詐称し、上海の市況調査を行った[10][18]。この時、同行者には高杉晋作がいた[18]。
薩英戦争とイギリス留学同行

1862年8月21日、生麦事件が起こる[19] [20]。事件の処分を巡る対立から薩摩藩とイギリスの間で薩英戦争が勃発し[19][21]、五代は寺島宗則と共に捕虜となる[22]。この時、五代は薩摩藩には強大な兵力がいると誇張し、イギリス軍に上陸作戦を思いとどまらせたという逸話があるが、これは過大評価とみる向きもある[22]。
五代らは横浜にて釈放されたが、捕虜となったため評判を貶めてしまい、横浜周辺で潜伏した後、1864年1月に長崎へと場所を移し、隠遁生活を送った[4][23]。隠遁生活中、十か条からなる意見書を薩摩藩に提出した[4][23]。意見書の内容の詳細は分かっていないが、英仏への留学生派遣、産業振興、軍備の増強などであると見られている[23][20]。
五代の意見書によって、家老のとなっていた小松帯刀は英仏への留学生派遣を決定し、1864年5月頃に五代を薩摩藩に呼び戻した[24][25]。イギリスへの留学生派遣が決定され、五代はグラバーと連携し、留学に向けた手配を行った[26]。五代自身も留学生の一団の御船奉行副役(副団長)として同行している[4]。
薩摩藩遣英使節団は、1865年3月22日に薩摩を出港し、船内で髷を切り、香港で洋装を調達した[24]。そして、5月28日、サウサンプトン港に到着する[27][26]。到着後、イギリス、ヨーロッパ大陸の視察を行い[27]、イギリスでは、紡績機械や銃、双眼鏡を買い付けた[28][27]。そして、ベルギーまたはロンドンにおいてシャルル・ド・モンブランと出会い、商社の設立を合意する[29][30]。この商社設立については、詳細は不明であるが、様々な理由によって実現することは無かった[31][29][32]。
ロンドン滞在中に、同地より薩摩藩に向けて18か条からなる建言書を送付する[33][34]。この建言書には、ベルギーとの和親条約の締結と同国との商社設立、富国強兵、殖産興業、パリ万国博への出展が提言されていた[28][34][35]。
帰国と明治政府官吏時代


五代ら薩摩藩遣英使節団は、1866年2月に帰国する[36][37]。1867年4月、薩摩藩はパリ万国博への出展を決定し、五代は帰国後、御用人外国掛を命じられ、長崎に在勤しながら、万国博出品に貢献する[33][38]。また、グラバーと共に、武器の買い付けを行い、長州藩へと供給した[39]。
1867年12月、新政府が樹立されると、与兼外国事務掛となり[40]、大阪に勤務する[4][39]。これは、今でいう外交官に相当する官職であった[4]。だが、外国事務掛の職名は頻繁に変わり、1868年1月23日には大阪外国府事務掛に、2月20日には大阪外国掛判事、6月5日には大阪府権判事、9月19日に大阪府判事と変わった[41]。

この頃の関西は治安が極めて悪く、外国人と日本人による衝突が相次いでおり、薩摩藩には外国人の安全を守る任務があった[42]。1868年2月に起きた神戸事件では、五代は事件の処理に当たった[43]。事件は責任者あった滝善三郎の切腹と彼が率いた第3砲兵隊の謹慎と言う形で決着したが、五代は伊藤博文と共に滝の助命嘆願に奔走し、外国公使らと交渉したが纏まらず、その旨を永国寺にいる滝へ直接報告している[44]。神戸事件の処理後間もなく、堺事件が起きる[45][46]。これは、土佐藩士が堺に現れたフランス水兵11名を殺害した事件で、フランス公使レオン・ロッシュが抗議し、加害者である土佐藩士20名の処刑と、賠償金を要求した[46][47]。五代は行方不明となっていたフランス水兵の遺体の捜索と回収に当たったが、期日の時間に間に合わないことを悟り、一計を案じて自身の懐中時計を数時間遅らせたことで、期日通りに引き渡した[46][48]。
堺事件後、京都において明治天皇と外国公使が謁見することになっていたが、今度はイギリス公使ハリー・パークスの一行が切りつけに遭った。これを知ったフランス公使レオン・ロッシュが兵庫から横浜に退避しようとしたが、五代の説得により思いとどまり、予定通り天皇と謁見し、兵庫へと戻った[49]。
1868年12月6日、グラバーらと共に長崎の小菅に小菅修船場を設立。これは、ソロバンドックとして知られる[50][39]。
1868年7月、明治政府は大阪開港を宣言し、貿易事務を扱う川口運上所を設置、五代は責任者となる[51]。大阪港開港に向け、外国人の居留地(旧川口居留地)の設定と建設を行わせた[52][53]。また外国人の慰安施設のため、松島遊郭の認可を行ったとされる[53]。だが、外国人は、居留地付近であっても狩猟を行うなど、素行が悪く、五代は各国公使に対して厳重に抗議している[54]。五代は不正に厳しく、それを見かねた当時兵庫県知事であった伊藤博文が、五代に対して忠告文書を送ったほどであった[54]。だが、五代はあくまでも官吏たるもの公明正大であることが求められるとして頑なな姿勢を崩さなかった[54]。
また、五代は付き合いの深かったシャルル・ド・モンブランからの大阪-神戸間の電信設置の申請については却下し、アメリカからの京都-大阪-神戸の鉄道敷設の申請も却下した[41][55]。これは中国が外国資本に委ねたために植民地化された実情を見ていたためであり、五代はあくまでも官営にこだわった[41][56]。
明治政府は、戊辰戦争の戦費調達のため貨幣鋳造が急務であると考え、五代ら官吏に対し造幣寮設置の指令が出された。五代は香港からイギリス製の造幣機械を買い付け、大阪造幣寮が設立される[57][58]。
実業家への転身
官職の辞職
五代は官吏として成功したが、1869年5月、会計官権判事を拝命し、大阪から横浜へと異動となる[59][60]。五代の異動にあたって、大阪の五代の部下は留任を求めていた[60][61]。異動後、2か月ほどして官職を辞職し、一度鹿児島へと帰郷したが、間もなく大阪で事業を起こすことを決意する[62][60]。官職を辞職して間もない五代は「惣難獣」という戯画を書いているが、これは討幕派でありながら新政府に奉公した者を揶揄した狙いがあった[60]。
大阪を代表する実業家へ
1869年10月、大阪において、地金を造幣局に納入する金銀分析所を設立する[63]。同事業は成功し、当時の金額で数十万円の利益を上げたとされ、実業家の地盤を築くことに成功する[64][65]。金銀分析所に次いで手掛けたのが、鉱山業である[66]。五代は、1871年鉱山業に乗り出し、奈良県にある天和銅山の取得を皮切りに次々に鉱山を買収し、その数は26か所に及んだ[67][68]。鉱山の管理のため、当時としては近代的な経営組織だった弘安館が設けられた[59][64]。だが、鉱山業は、採掘量が一定せず、価格も不安定であったことや、災害や事故に遭うリスクもあり、経営はうまく行かなかった[69]。
1881年、鉱山で採掘した銅を加工するための会社として、出資者の一人として大阪製銅会社を設立する[70] [71]。大阪製銅会社では、五代が全体で3番目となる大株主であった(筆頭株主は三井元之助)[72]。大阪製銅会社は、東京砲兵工廠への納品などで利益を上げたが、西南戦争の戦費調達のために増刷された不換紙幣の価値が急落、松方正義蔵相が紙幣の価値回復を行った結果松方デフレと呼ばれるデフレが起きる[73]。大阪製銅会社は、インフレ時に購入していた製造機械の価値が、デフレによって下落し経営状態が悪化。その後、業績が回復することは無く、1899年3月に経営破綻してしまい、住友財閥に買収された[73]。

鉱山業の他、1876年9月に朝陽館という組織を設立し、製藍業を手掛けた[74] [75]。当時の日本では、安価で良質なインド産の藍の輸入に押されていたため、五代は政府から50万円を借り入れ、藍の製造と販売に乗り出したがこれもうまく行かず、五代の死去時に負債として残されることとなった[76][77][78]。
五代が手掛けた事業でうまく行った事業として、活版印刷と英和辞書の発行があるが、これは資金を援助したというのが実情である[74]。英和辞書については、1871年に増補版の印刷を五代が計画した[74]
江戸時代、最大の米取引所であった堂島の米取引所は、1869年になり禁止となったが、これによって物価の基準が失われてしまい、大阪の経済は大混乱に陥る[79][80]。五代はこの状況を受けて政府と交渉し、1876年に堂島米商会所を設立。物価の安定を図った[79][80][81]。
その後、1880年に東京馬車鉄道株式会社の設立に関与し、1881年に関西貿易社の設立、1882年に神戸桟橋会社、1884年に阪堺電車の設立に関与した[70][71][82]。このうち、阪堺電車の設立については発起人に名前が無く、どの程度関与したかは不明瞭である[83][84]。
開拓使官有物払下げ事件
五代が中心となって設立した関西貿易社は、社長に杉村正太郎、五代は総監の地位に就き、輸出事業を手掛けることとなった[85][86]。当時の北海道については、1869年に設立された開拓使と言う官営組織が、北海道の開拓並びに開発を行っていた[87]。代表的な事業にはビール工場や、牧場、林業がある[87]。だが、政府は官業による経営を転換させ、1881年に北海道開拓使の官業を民間に払い下げる方針を決定する[87]。これが大きな波紋を呼ぶこととなる。この開拓使については、当時1400万円もの資金を投入したのに対して、払い下げ価格は30年賦39万円という破格の安さであり、黒田清隆と同郷の五代が不当な利益を得たと非難された[88][89]。結局、払い下げは中止されることとなり、関西貿易社は、経営が軌道に乗ることが無いまま1883年5月に解散する[87]。黒田清隆は開拓官有物払い下げに関して、根も葉もない報道であるとして新聞社や雑誌社を告訴し、新聞社と雑誌社側が敗訴することとなった[90]。なお、この告訴においては、五代は加わっておらず、その理由は不明である[90]。
大阪商法会議所の設立
明治維新後、商業を独占していた株仲間は解散させられた[91][92]。株仲間によって良くも悪くも商業の秩序が保たれていたため、株仲間の解散は大阪においては弊害が大きく、商業上の信用が地に堕ちてしまう[91][93]。そこで、東京をはじめとして、大阪でも株仲間に該当する組織として、五代ら15名の有志が1878年7月に大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)の設立を出願し、五代は同組織の初代会頭となる[94][95][93]。五代は死去するまで会頭を務めた[96]。
大阪商業講習所の設立
1870年頃より、大阪では商業教育の熱が高まり、1880年9月有志から資金を募り、同年11月、私立大阪商業講習所が設立された(大阪市立大学を経て大阪公立大学へとつながる)[97]。同学校は、五代ら十数人が発起人となった[97]。だが資金面で学校運営は厳しく、五代らは同学校を、大阪府の管轄に置くことを府知事に提案し、府の管轄となった[98]。
大阪株式取引所の設立
1874年10月、政府は株式取引条例を発布し、東京と大阪に株式取引所を設立することを決定する[99]。だが、同条例は、当時の日本の商習慣からすると、到底許容できる内容ではなかったため、東京では渋沢栄一らが、大阪では五代らが、条例の改正を求めた。これを受けて、政府は1878年5月に、修正した株式取引条例を公布する[99]。大阪では、五代らの呼びかけによって、大阪株式取引所の創立願書を大阪府に提出し、その後1878年6月17日、大蔵卿の認可を受け、同年8月15日大阪株式取引所が設立された[99][81]。大阪株式取引所の創立時の株主は130名に上り、五代は、150株を所持し、これは全体で7.5%の持ち株比率であった[80]。
下野後の政府閣僚とのかかわり

1874年に佐賀の乱が勃発するなど、政府の地盤は極めて不安定であった[100]。台湾に漂着した日本人漁民が台湾の先住民に殺害される事件が起きると、征台論が起き、台湾出兵に反対した木戸孝允が抗議の形で一時下野する[100]。蔵相を務めていた大隈重信も辞職を表明する[100]。かねてより付き合いの深かった大久保利通に大隈の辞職を翻意させるよう依頼された五代は、5か条からなる忠告の書状を大隈に送り、引き留めに成功する[100][101]。また、大久保が下野してしまった木戸を大阪において説得し、再び政府へと引き戻した[100]際も、五代は大久保に大阪の宿を提供し、政府閣僚らの連絡係を務めた[102]。
死去
若いころから酒をたしなんでいたにもかかわらず、健康であったが、1880年頃に心臓病を患い、1885年には糖尿病に罹ってしまう[4]。そして、治療の甲斐も無く、1885年9月25日死去[4][103]。葬儀は大阪にて行われ、1886年に建てられ墓碑は、松方正義が「従五位勲四等五代友厚墓明治十八年九月二十五日卒」と揮毫した[104] [105]。
五代は生前から蓄財に興味は無く、100万円の負債が残されたが、遺族が鉱山や工場などの不動産を売却することで完済した[106][105][107]。
死去後の評価
1914年、正五位が贈位され、これを記念して『近代之偉人故五代友厚伝』が出版された[105]。
1900年9月、大阪商業会議所に五代の銅像が建造されたが、1943年に太平洋戦争による金属類回収令によって接収され、台座のみが残された[106]。その後、1953年に再建され、除幕式には五代の孫である五代信厚らが出席した[106]。1961年には、五代の故郷である鹿児島に銅像が建造され、五代の次女藍子、孫の信厚らが除幕式に出席した[106]。
五代は、「東の渋沢、西の五代」と評されることが多い[108]。渋沢栄一が手掛けた事業には、第一国立銀行、日本鉄道、王子製紙、日本郵船、大阪紡績などの成功を収めた企業が数多くあるが、一方の五代は成功を収めた企業ばかりという訳ではなかった。渋沢が手掛けた企業は500社近くに対して、五代のそれは100社に満たない。また、渋沢が手掛けた企業は全国各地に展開した企業もあったが、五代の場合は、大阪又は関西圏が中心であった[109]。最も、渋沢が91歳まで生きていたのに対して、五代は49歳で死去したため、五代が渋沢と同じくらい長生きしていた場合は、より起業家として成功していたとする意見もある[108]。
開拓使官有物払い下げ事件については、五代は「払い下げ問題は政局に利用されている」「新聞で弁明しようとしたが、政府要人から止められた」という書簡を出しており、公に弁明することは叶わなかった[110]。
このため五代を創設者とする大阪市立大学のOBが、「五代が官有物を安く払い下げをうけた事実はない」として、教科書出版社に訂正を求める運動を行い[111]、2023年度には第一学習社や山川出版が払い下げ事件の記述から五代の名前を削除し、同業他社も「五代への払い下げの可能性が『新聞に報じられて問題になった』」と修正を行い、日本史年表を出版していた岩波書店も訂正する方針を示した[111]。
年譜・功績
- 天保6年12月26日(1836年2月12日)- 薩摩藩士である五代秀尭の次男として生まれる。
- 嘉永4年(1851年)- 元服して、才助と名乗る。
- 安政4年(1857年)
- 郡方書役を命ぜられる。
- 長崎海軍伝習所に第1期生として派遣され勝海舟らに会う。
- 文久2年(1862年)
- 文久3年(1863年)- 薩英戦争において寺島宗則とともにイギリス海軍に捕縛され、横浜に護送される[113][114]。
- 慶応元年(1865年)
- 慶応2年(1866年)2月 - 薩摩の山川港に帰着。直ちに、御納戸奉行にて勝手方御用席外国掛に任ぜられる。
- 慶応3年(1867年)
- 明治元年(1868年)
- 明治2年(1869年)
- 5月 - 会計官権判事として横浜に転勤を命じられるが、2か月で退官し下野する。
- 8月 - 大阪の両替商・久里正三郎の別邸に金銀分析所を設立する。
- 大阪通商会社、為替会社の設立に尽力する。
- 明治3年(1870年)3月 - 五代の要請で本木昌造が大阪活版所を創立する。日本で初めて英和辞書を印刷する。
- 6月 - 初めての鉱山経営として吉野郡天川郷和田村に収益性が最も高かった天和鉱山を手掛ける。
- 明治4年(1871年)4月 - 造幣寮、竣工。
- 明治6年(1873年)1月 - 弘成館(全国の鉱山の管理事務所)を設立する。
- 明治7年(1874年)7月 - 半田銀山(福島県)の経営を開始する。
- 明治8年(1875年)1月 - 2月 - 五代の斡旋により、大久保利通・木戸孝允らによる大阪会議開催。
- 明治9年(1876年)
- 9月 - 朝陽館(染料の藍の製造工場)を設立する。
- 11月 - 堂島米商会所を設立する。
- 明治11年(1878年)
- 8月 - 大阪株式取引所(現・大阪取引所)を設立する。
- 9月 - 大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)を設立して、初代会頭に就任する。
- 明治12年(1879年)11月 - 大阪商業講習所(現・大阪市立大学)を創設する。
- 明治14年(1881年)
- 3月 - 大阪青銅会社(住友金属工業)を設立する。
- 6月 - 関西貿易社を設立する。
- 7月 - 開拓使官有物払い下げ事件に関わり、批判を浴びる。
- 明治15年(1882年)
- 7月 - 共同運輸会社を設立。
- 12月 - 神戸桟橋会社の設立許可を得る(1884年11月開業)。
- 明治17年(1884年)
- 5月 - 五代らの努力により大阪商船(旧・大阪商船三井船舶→現・商船三井)が開業。
- 明治18年(1885年)
- 大正3年(1914年)
- 7月 - 五代友厚秘史が発刊される。
- 11月19日 - 大正天皇が演習のため大阪行幸の際、特旨を以て正五位を追贈される。
家族
- 父 - 五代直左衛門秀尭(1790-1853)。島津家譜第の家来であり[119]、島津藩儒官(儒学教師)で町奉行も務めた[120]。子に長男・徳夫、長女・広子(祁答院家へ嫁ぐ)、次男・才助(友厚)、次女・信子[119]。
- 母 - 本田やす子(?-1868)[120](きよ子?)[119]
- 妻 - 坂本広子。慶応3年(1867年)に結婚し、娘・治子(のち松子)をもうけるも離婚[119][120]。
- 後妻 - 豊子(本名・トヨ)(1851-1892)。1870年に結婚 彼女の一族は奈良県田原本町の出身。実家は田原本町八尾村常磐町。安養寺から鏡作神社までの中街道筋に当たり、トヨは、そこで塾を開いていた儒学者、萱野恒次(通称・庸司)の三女として、嘉永4年(1851年)に生まれた。豊子の実兄 森山茂は維新政府の神戸外交官であり、友厚と深く交流があった[120]。
- 長女 - 五代武子(1871-1915)[121]。1886年に九里龍作 (1858-1938)と結婚。龍作は紀伊国(現・和歌山県)本宮の士族・高須兵太夫の次男だが[121]、大阪で両替商をしていた叔父の紀伊国屋九里正三郎の養子となり大阪府平民となった[122]。1875年に東京の外国語学校を卒業し、1881年に帝国大学工学部を卒業[123]。大阪製銅の技術者を必要としていた友厚の計らいにより[124]、第4回文部省留学生として[125]ロンドン大学で3年間機械工学を学び、1885年に帰国して東京大学教授になったが[126]、五代家に婿入りして五代龍作となり、友厚の事業を継いだ[127]。武子・龍作の息子に法学士・信厚[128]、娘に厚子(チッソ社長の白石宗城に嫁ぐ)がいる[129]。武子一家が暮らした友厚邸は1960年初頭に取り壊され、大阪科学技術センタービルとなる。友厚邸には、友厚のイギリス行きを支援した小松帯刀の妾・三木琴とその娘・壽美も小松の死後、同居していた。
- 次女 - 五代藍子(1876-1965)。母親は宮地勝子(京都宮侍の娘、旧姓・大谷かつ)。友厚が設立した精藍所にちなんで命名された。義兄・五代龍作が経営する半田銀山に20代から身を寄せ、洋書で鉱山学を学び、明治期に友厚が採掘権を持っていた三重県治田村(現・いなべ市)の治田鉱山を1919年に買い戻し、五代アイの名で経営を始め、自らも地下足袋・もんぺ姿で山に通って採掘努力を続けたが、思うような成果が得られないまま現地で亡くなった[130][131]。現在もアイが掘らせた手掘りの隧道が残っている[132]。
- 三女 - 土居芳子(1881-?)。土居通夫(司法官、鴻池家顧問を経て、京阪電鉄など多数の企業の社長を歴任し、衆議院議員、大阪商工会議所第7代会頭を務めた)の養女となり、1896年に宇和島藩主・伊達宗徳の五男・剛吉郎(1870-1949)を婿にして土居家を継いだ[133]。遺稿句集として『松乃華』がある[134]。剛吉郎は、阪東土地社長,大阪天王寺土地相談役[135]、阪神海岸電気鉄道の発起人[136] などを務めた。息子の土居保太郎(1898-?)は、子爵・大給近孝の娘・幸子と結婚し、内閣府の文書係となり[137]、有識故実を調査する宮内官として欧州にも滞在[138]、高松宮付事務官を務めた[139]。
- 四女 - 杉村久子(1882-1945)船場の商家・杉村商店の杉村正太郎に嫁ぐ[140]。杉村は、鴻池や住友といった豪商と肩を並べた素封家で両替商の「錫正(錫屋)」の息子で、家業の財力を元に杉村倉庫を創業し、大阪商船、阪神電鉄、播磨水力電気、朝鮮電気などの重役を務めたほか、第四十二銀行や北浜銀行の整理で辣腕を振るう一方、個性的な性格から大阪財界の変人とも言われた[141][142]。その息子である野村正二郎(野村維章男爵家へ養子)、杉村正三郎兄弟は極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出され、後に正二郎は上智大学教授、正三郎は阪急電鉄常務を夫々務めた[143]。
- 長男 - 秀夫(1883-1907)
- 次男 - 野村友太郎(1885-1926)- 野村維章の養子となり、後に男爵。
- 曾孫 - 五代富文[144](宇宙工学者、NASDA副理事長)
墓所・霊廟・銅像


明治18年(1885年)10月2日、阿倍野の墓地に従五位勲四等五代友厚墓として葬られる。阿倍野区の阿倍野筋4-19にある大阪市設南霊園(阿倍野墓地)の中央で石灯篭に囲まれている。
五代友厚の葬儀は中之島で行われた。
明治33年(1900年)9月、知人や商工会議所議員が相談して、大阪商工会議所の前庭に五代友厚銅像が建立される。
昭和35年(1960年)3月、大阪市制施行70周年記念として五代友厚創立の製藍所・西朝陽館跡に大阪市が建碑する。

昭和36年(1961年)、追悼満75周年記念として故郷鹿児島に五代友厚銅像が建立される。
昭和57年(1982年)、鹿児島中央駅前東口広場に彫刻家の中村晋也が制作した薩摩藩英国留学生の像『若き薩摩の群像[145]』の一人として銅像が建立される。
平成16年(2004年)12月1日、大阪証券取引所の新ビル完成時に、五代友厚銅像が建立される。

平成28年(2016年)、生誕180周年記念として大阪市立大学杉本キャンパスに、同窓会を中心として五代友厚銅像が建立される。
文献
- 五代龍作「五代友厚伝」(1933年)
- 直木三十五「大阪物語第6巻五代友厚」(改造社、1934年)
- 織田作之助 「大阪の指導者」(錦城出版社、1943年)
- 山中園子「五代友厚秘史」(五代友厚七十五周年追悼記念刊行会、1960年)
- 西村重太郎「五代友厚小伝」(大阪商工会議所、1968年)
- 村山公三「五代友厚伝記資料第1〜4巻」(日本経営史研究所、1970年 - 1974年)
- 「五代友厚関係文書目録」(大阪商工会議所、1973年)
- 宮本又次「五代友厚伝」(有斐閣、1981年)
- 真木洋三「五代友厚」(文藝春秋、1986年)
- 小寺正三「起業家 五代友厚」(現代教養文庫、1988年)
- 渡部修「功名を欲せず」(毎日コミュニケーションズ、1991年)
- 大阪市史編纂所「大阪市の歴史」(創元社、1994年)
- 島実蔵「大阪でごわす 明治商都物語」(時事通信社、2001年)
- 童門冬二「ニッポンの創業者」(ダイヤモンド社、2004年)
- 早瀬利之「午後の刺客」(光人社、2006年)
- 菅春貴「歴史有名人の晩年と死」(新人物往来社、2007年)
- 田付茉莉子「五代友厚:富国強兵は「地球上の道理」」(ミネルヴァ書房、2018年)
関連作品
- 小説
- 織田作之助「五代友厚」(日進社、1942年)
- 織田作之助「五代友厚」(河出書房新社 河出文庫、2016年1月22日)ISBN 9784309414331
- 小寺正三「五代友厚」(新人物往来社、1973年)
- 小寺正三「五代友厚」(社会思想社、1988年12月30日)ISBN 9784390112796
- 阿部牧郎「大阪をつくった男 五代友厚の生涯」(文藝春秋、1998年1月30日)ISBN 9784163174501
- 佐江衆一「士魂商才 五代友厚」(新人物往来社、2004年8月24日)ISBN 9784404032157
- 佐江衆一「士魂商才 五代友厚」(講談社 講談社文庫、2009年10月14日)ISBN 9784062764803
- 佐江衆一「士魂商才 五代友厚」(角川春樹事務所 ハルキ文庫時代小説文庫、2016年1月1日)ISBN 9784062764803
- 高橋直樹「五代友厚 蒼海を越えた異端児」(潮出版社 潮文庫、2015年9月1日)ISBN 9784267020339
- 朝井まかて「朝星夜星」(PHP研究所、2023年2月14日)ISBN 9784569854038
- 映画
- テレビドラマ
- 『奇兵隊』1989年、日本テレビ (演 : 勝野洋)
- 『あさが来た』2015年、NHK連続テレビ小説 (演:ディーン・フジオカ)
- 『青天を衝け』2021年、NHK大河ドラマ (演:ディーン・フジオカ)
- テレビ番組
- 漫画