西尾末広

日本の労働運動家・政治家 From Wikipedia, the free encyclopedia

西尾 末広(西尾 末廣[1]。、にしお すえひろ、1891年明治24年)3月28日 - 1981年昭和56年)10月3日)は、日本労働運動家政治家。位階は正三位

生年月日 1891年3月28日
没年月日 (1981-10-03) 1981年10月3日(90歳没)
概要 生年月日, 出生地 ...
西尾 末広
(西尾 末廣)
にしお すえひろ
1951年撮影
生年月日 1891年3月28日
出生地 日本の旗 日本香川県香川郡雌雄島村女木島(現高松市
没年月日 (1981-10-03) 1981年10月3日(90歳没)
死没地 日本の旗 日本神奈川県川崎市中原区
出身校 柴山高等小学校卒業
前職 衆議院議員
所属政党社会民衆党→)
社会大衆党→)
(無所属→)
翼賛政治会→)
(無所属→)
日本社会党→)
社会党右派→)
(日本社会党→)
民主社会党→)
民社党
称号 正三位
勲一等旭日大綬章
勲一等瑞宝章
配偶者 西尾 フサノ
内閣 芦田内閣
在任期間 1948年3月10日 - 1948年7月6日
内閣 片山内閣
在任期間 1947年6月1日 - 1948年3月10日
日本の旗 衆議院議員(8-15期)
選挙区 大阪府第2区
当選回数 8回
在任期間 1952年10月2日 - 1972年11月13日
日本の旗 衆議院議員(6-7期)
選挙区大阪府第1区→)
大阪府第2区
当選回数 2回
在任期間 1946年4月11日 - 1948年12月23日
日本の旗 衆議院議員(4-5期)
選挙区 大阪府第4区
当選回数 2回
在任期間 1939年6月13日 - 1945年12月18日
その他の職歴
日本の旗 衆議院議員(3期)
1937年5月1日 - 1938年3月23日
日本の旗 衆議院議員(1-2期)
1928年2月21日 - 1932年1月21日
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副総理内閣官房長官第2代)、衆議院議員(15期)、民主社会党(民社党の前身)委員長(初代)などを歴任した。

来歴・人物

香川県香川郡雌雄島村(現・高松市)の女木島(通称「鬼が島」)の出身。なお、高松市は同じく日本社会党の最高幹部となる成田知巳の出身地でもある。

14歳で大阪砲兵工廠の旋盤工見習を皮切りに各地の工場で働く。住友鋳鋼場職工から労働運動に身を投じ、住友鋳鋼場、大阪電灯藤永田造船所川崎三菱造船所争議などの争議の指導と検束を繰り返す。1919年大正8年)に友愛会に入り松岡駒吉に接近、1921年(大正10年)には藤永田造船所における争議を指導したことを理由として治安警察法違反の疑いで大阪刑務所に拘留された。1926年(大正15年)には社会民衆党の結成に参加し、中央委員となった[2]

1928年(昭和3年)、第1回普通選挙社会民衆党から立候補し、初当選。1932年(昭和7年)以降は社会大衆党に所属し中央執行委員と大阪府連政策調査会長に就任した。1938年(昭和13年)3月16日衆議院本会議における国家総動員法案の審議に際し、同法案を支持する立場から、総動員法反対論を国家よりも個人を重しとする資本主義的イデオロギーを含むものとして退けたうえで、近衛文麿首相に対し「ヒットラーの如く、ムソリニの如く、或いはスターリンの如く、大澹に日本の進むべき道を進むべきであらう」と激励するが、すかさずスターリンとは何だ、取り消せ、といったヤジが飛び、議場は騒然となった。その後社会大衆党を好ましく思っていなかった立憲政友会立憲民政党の両党によって西尾は懲罰委員会にかけられ、同月23日に除名となった。西尾本人は力弱さを感ずる近衛に対し、確信をもって力強く「日本精神は是だ、日本の進むべき道は是だ、と国民を指導すべし」という意味で発言したのであって、共産主義社会を建設せよとする意図は全くなかったが、やむを得ず総動員法案に賛成を決めた政民両党の憂さ晴らしの対象となったのである[3][4]

1940年(昭和15年)3月、民政党の斎藤隆夫が行った反軍演説の議員除名問題では、反対の立場を示し衆議院本会議を欠席する。社会大衆党書記長麻生久による幹部除名策略によって党首安部磯雄水谷長三郎らとともに除名処分を受けた。その後は河野一郎らと興亜議員同盟を結成し、1942年(昭和17年)の翼賛選挙では非推薦で当選する。翼賛政治会大日本産業報国会と距離を置き、密かに東條英機内閣の倒閣運動にも加わった。その結果、戦後の公職追放を免れた。また、陸軍少将真崎勝次および江藤源九郎、海軍少将松永義男から専門的な戦局の分析を聞いており、敗色が濃厚であることを知っていた。このため、終戦後にいち早く行動を起こすことができた[5]

終戦直後

1945年8月15日、西尾は期限切れの定期預金を引き出しに住友銀行湊支店におり、そこで玉音放送を聞き終戦を知った。かねてから労働組合の再建と社会主義政党の結成を夢見ていた西尾は、そのまま自宅へは帰らずに京阪電車に乗って四条駅で下車し、旧知の水谷長三郎を訪ねて、社会主義政党結成と労働組合の再建について話し合った。また17日には「少しばかりの食糧と洗面道具などを入れたリュックサック」を背負って列車に乗り込み、東京・大井町の松岡駒吉を訪ねたが、両者の腰は重く、西尾は失望を覚えた。21日には水谷も上京し、西尾・水谷・松岡の3人が落ち合って話し合い、水谷・松岡も西尾に協力することに決めた。まず24日には鈴木茂三郎加藤勘十らのお膳立てで徳川義親と会見するが、仲介役の藤田某に不信感を抱いたために話を打ち切った。次いで25日には平野力三の仲介で鳩山一郎と会談するが、「育ちが違う」という鳩山の発言を契機に「政治的余韻」を残したまま別れた[6]

やがて西尾・水谷・平野は独力で独自の社会主義政党を結成するほかないと決断、日本労農党系の河上丈太郎三輪寿壮河野密三宅正一浅沼稲次郎らと連絡を取るようになった。また、容共左派とされる日本無産党系の参加をめぐって議論があったが、単一社会主義政党を目指す西尾が参加に賛成したため合流することになった。のちに西尾は、「党内運営、政府運営の面からして、社会党に左派を入れたのはやはり間違いだった」と後悔の弁を述べている[7]

9月に入ると「社会主義政党準備懇談会」が開かれ、そのなかから西尾ら日本社会党創立準備委員19名が選出、11月2日に日本社会党創立大会が開催されることが決定された。

日本社会党の結成と片山内閣の誕生

1945年11月2日に日本社会党が結成されると議会対策部長に就任した。1946年(昭和21年)、片山哲委員長の下で書記長に就任。1947年(昭和22年)、第23回衆議院議員総選挙で社会党が衆議院第一党になったと聞かされた時には思わず「本当かい、そいつぁえらいこっちゃ」と本音を漏らしている。西尾は社会党が政権を担当するのに準備不足ということを考えていたため、非社会党首相を擁立しつつ、閣僚は社会党を多数擁立する内閣を想定していた。具体的には、日本自由党吉田茂内閣続投を想定していたが、吉田は容共社会党左派を嫌い、排除を要求してきた。その結果、吉田続投路線は見送られた。

日本自由党との連携が失敗すると、6月1日には社会党・民主党・国民協同党からなる片山内閣が成立した。社会党からは片山哲首相・森戸辰男文相・平野力三農相・水谷長三郎商工相・鈴木義男司法相・米窪満亮国務相らが入閣したが、いずれも旧社会民衆党系を中心とする右派出身であった。西尾も党の書記長を兼任したまま内閣官房長官として入閣し、「名目上の主人」片山に代わり、実質的に党と内閣の実権を掌握した[8]

外交では、片山首相・芦田外相とともに中華民国外交部長と会談した際に、日本国内における「軍国的右翼勢力」よりも「共産党勢力」の台頭に強い警戒感を表明したほか、ソ連の脅威を踏まえ、日本が軍隊を持てないならば、アメリカは日本を守るべきだと考え、西側陣営への接近と反共路線を明確にした[9]

内政では、片山内閣の重要政策である炭鉱国家管理法案の調整に携わる。西尾自身は同法案について内心反対であったが、同法案が片山内閣において唯一社会主義色の強い政策であったことや、水谷商工相が非常に熱心であったことを踏まえ、規模の大きい北海道の炭鉱に限定する形で国有化を進める妥協策を提案するが、連立相手の民主党が反対したため潰えた。結局11月11日の三党首会談で民主党に譲歩する形でどうにか骨抜き成立にこぎつけた。

当時激化していた労働攻勢の矢面にさらされたのも、西尾であった。

特に先鋭的であったのは官公労で、連日首相官邸に押し寄せてきたが、首相が応対するわけにはいかないため、西尾が代わって対応に当たった。組合員から、「労働者あがりのあんたが、そんな冷たいことでよいのか、もっとわれわれの立場に立ってもらわねば困る」と詰め寄られると、「思い違いしては困る。ここにこうしているのは労働運動家の西尾ではない。国民全体の代理人なのだ」と突き放すこともあった。組合幹部たるものは、組合員のために使用者との交渉で有利に運ぶ能力に加え、組合員に妥協忍耐を説得する能力も必要だという考えがあった[10]

なお、組閣に当たって政務の補佐を担当する人物を探したが、社会党には行政の実務経験を持つ人材は殆どおらず、新しく登用する必要があった。そこでGHQ民政局のケージスの紹介で外交官の曾禰益を抜擢、曽禰は以降西尾の腹心として活躍することとなる。また、当時運輸次官であった佐藤栄作や、大蔵次官の池田勇人などにも目をつけるが、両名には断られた。また、元来カネと縁遠かった社会党は、組閣費用さえ事欠く有様であった。加えてGHQの指導で機密費や接待費が厳しく制限されており、輪をかけて資金難に陥った。岡山の食品会社の社長林原一郎から100万円、東洋紡の遠藤竹次郎から100万円、昭和電工の日野原節三から100万円の献金があって何とか乗り切ることができたという。ただし、この昭和電工日野原からの献金は、のちに西尾を苦しめることとなる[11]

片山内閣の崩壊と芦田内閣の成立

1948年2月、片山内閣は公務員給与増額にかかわる政府補正予算案を予算委員会に提出したところ、鈴木茂三郎予算委員長率いる社会党左派が造反したことで否決された。西尾は、このままでは同じようなことが繰り返され、むしろ下野して左派の処理に専念したほうが良いと考え、片山に総辞職を提案した。当初は抵抗していた片山も、内閣を支える西尾にその気がないのであればやむを得ないと考え、2月10日に衆参両院の議長に対して総辞職の旨を通告、8か月間続いた片山内閣は終わりを迎えた[12][13]

続いて成立した芦田内閣では、副総理に就任した。片山内閣総辞職の首謀者であるということで、当初は入閣を辞退しようとしていたが、芦田均や水谷の懇願を受けて就任することにした。もっとも、所管分野のない副総理は秘書官1人がいるほかは部下を持たない閑職で、仕事といえば野溝勝国務相や苫米地義三官房長官の相談役となるくらいであった。真面目で几帳面・合理的な、英国紳士然としている芦田首相との関係も良好であったが、6月1日、突如として衆議院の不当財産取引特別委員会から、土建業者からの献金を届けていないとして証人喚問を受けた(土建献金事件)。西尾は「書記長である西尾末広個人がもらった」と主張するが、6月9日に政令328号違反を理由に起訴された。同年8月27日には東京地方裁判所で無罪判決を受けるも、責任を取って副総理を辞任した。

さらに同年10月6日には昭和電工社長・日野原から受け取ったくだんの献金100万円を贈収賄と見た検察によって逮捕され(昭和電工事件)、日比谷の検察庁で取り調べを受けた後、小菅拘置所に移送された。政治的陰謀の一環であると感じていた西尾は名状しがたい屈辱感と怒りを覚えていたが、かつて労働運動で身体を鍛え、獄中生活も経験していたことや、自らの無罪を確信していたため、動揺することもなかった。実際に西尾邸が家宅捜索されたところ、普通預金の2万円のほかは、不動産1つ、有価証券1つもなかったことから、担当検事が驚きあきれたという。

小菅拘置所内では読書と施策に明け暮れた。読んだ中で特に感銘を受けたのは、前田蓮山の『原敬伝』と『ヒンデンブルクの悲劇』という翻訳本であった。前者の原敬は、一般には冷徹・権謀の人とばかり思われるが、ハニカミ屋でもあったその人柄に共感を覚え、後者については、第一次世界大戦に敗戦したドイツの悲劇の象徴であるヒンデンブルクに、官房長官時代に急進派と混乱渦巻く祖国との間で苦悩を重ねた自身を重ね合わせたのであった[14][15]

苦節十年

1948年11月10日、西尾はようやく出獄するが、1958年10月に昭和電工事件の無罪が確定するまでの10年間、本格的な政治活動はできなくなった。また、およそ1か月前の10月8日には社会党から除名されるなど、西尾にとって1948年は「わが生涯最悪の年」であった。追い打ちをかけるように翌1949年(昭和24年)、第24回衆議院議員総選挙では無所属で立候補するも落選する。

不遇の西尾を激励するため、東宝馬淵威雄副社長と社会運動通信社の宮内勇の呼び掛けで「時局研究会」が結成され、東京の財界・言論界の大物が集まり、月1回のペースで研究会と銀座のバーでの懇談が行われた。のちに西尾は、「いま思い出しても、ほんとうに心暖まる楽しいつどいであった」と回顧している。

他方で1951年、講和・安保条約をめぐって社会党が混乱する中、3月2日付の読売新聞において西尾は、①講和条約が成立して独立国になれば再軍備は絶対必要だ②(戦前の)軍隊が無謀な戦争をしたのは軍備を持っていたからでなく、軍の性格が軍閥であったからだ。シビリアン・コントロールが必要だ③自力自衛が困難な場合は、必要に応じ日米防衛協定または地域集団保障がいい④現行憲法は敗戦直後にできたものだから講和後は全面的に再検討する必要がある、として、改憲と再軍備を公然と主張している[16]。10月には社会党が左右に分裂し、西村栄一ら西尾派は河上派・加藤勘十派とともに右派社会党に所属した。

政界復帰と左右社会党の統一

1952年(昭和27年)8月に行われた第25回衆議院議員総選挙で当選、翌1953年に右派社会党への復党が認められると直ちに行動を開始し、同年1月の党大会では、河上派中心で取りまとめられた運動方針案に反発して、再軍備反対・憲法改正反対を否定する西尾修正案を提出、河上派と再軍備論争を展開した[17]

このころ、総評の容共路線を批判した全繊同盟・全日本海員組合・全映演などの右派系労組は、1954年4月に総評を脱退して全労会議を結成した。西尾派はこれらの組合から支援を受け、地盤を固めることに成功している[18]

河上派はこうした西尾派の勢力拡大を抑えるため、左派社会党の鈴木派と連携して再統一へと動いた。西尾は5月に「社会党統一問題への考察」を発表し、再統一自体には反対でないとしたものの、左派社会党との外交・防衛・労働政策における相違は偶然的なものでなく世界観の相違から発した根の深いものだとして、無原理・無原則な即時統一を批判した。しかし、昭和電工事件の裁判が継続中ということで積極的な指導ができないまま、1955年には左右社会党が合流して統一日本社会党が結党された。委員長は鈴木が、書記長は河上派の浅沼稲次郎が就任し、西尾は顧問に就任したものの西尾派は非主流派の立場に置かれた[19]

左右対立と西尾派の脱党

1958年(昭和33年)10月、東京高裁にて昭和電工事件の無罪判決が確定すると、西尾は本格的に政治活動を再開する。このころの西尾派は、河上派や鈴木派と連携して党内最左派を追い込み、政策を現実化して政権交代を実現することを目指していた。

ところが同年6月の第4回参議院議員通常選挙で社会党が敗北(議席そのものは増えたが、自由民主党が大勝した)すると、党内では再建論争が展開される。西尾派が敗北の原因を「階級政党論」に求め、左派の中ソ一辺倒を批判したのに対し、最左派の平和同志会(松本派)が共産党との共闘を主張するなど、左右対立が再び表面化した。

7月19日、西尾は「西尾談話」を発表し、①安保を解消するには、それに代わる安全保障体制とそこに至る道筋を明確にすること、②安保改定阻止国民会議における主導権を総評から社会党に移して共産党を排除することを主張したが、これに左派が激しく反発して「西尾問題」として争点化、9月12日からの第16回党大会では、松本派・党青年部・総評など最左派から西尾除名決議案が大会運営委員会に提出された。これは同日午後3時すぎに賛成17名、反対44名で否決されるも、除名に反対していた鈴木派は次第に態度を硬化させ、同日午後5時に西尾問題を統制委員会に付議する決議案を大会運営委員会に提出し、賛成多数で本会議に上程することが決まった。翌13日午後の本会議において、西尾は一身上の弁明として40分にわたって演説を行い、さらに河上丈太郎が反対の立場から「西尾君が労働者階級を裏切ったことが一度でもあっただろうか」と弁護を行ったが、賛成多数で可決された[20][21]

これを受けて西尾派は、14日午前1時から東京・九段で全労幹部と協議を行い、大会のボイコットと役員の総引き揚げを決め、16日には党内に「社会党再建同志会」を結成して完全野党の立場をとったほか、河上派の切り崩し工作を開始した。また、党大会は、西尾派の欠席により1か月間の休会となった。

このような状況をみた河上派は、統一を維持するために西尾・鈴木両派の調整に入り、10月14日には西尾の自主的な党顧問辞任を視野に入れつつ西尾が河上に進退を一任する代わりに、河上・西尾両派が右派連合を結成して役員を引き揚げ、完全野党となることが決まるが、同日午後11時すぎ、河上派の浅沼が鈴木の説得を受け、突如として書記長留任を表明したため、合意は反故となった。これに西尾派は激しく反発するとともに、新党結成に動き出した[22][23]

10月16日には再開大会が開かれるが、西尾派は引き続き欠席した。同日午後には河上派の河野密が、「浅沼書記長だけの役員就任を認めた完全野党」という新提案を申し入れたが、西尾派はこれも拒否した[24]

10月25日、西尾派は正式に社会党を脱党し、院内会派「社会クラブ」を結成、その後河上派の一部が脱党して結成した「民社クラブ」と合流して民主社会党を結党した。

民社党を結党

1960年(昭和35年)1月24日、民主社会党の結党大会を開催し、西尾が委員長に、曽禰が書記長に就任し、片山が最高顧問に就任した。結党時の国会議員は衆議院38人、参議院16人[25]

西尾は新党の性格について、保守と革新の中間に位置する中間政党ではなく、イギリス労働党ドイツ社会民主党のような議会主義・社会主義政党であると規定した。組織づくりでもイギリス労働党に倣って党委員長と国会議員団長の二元制を採用したが、新安保条約の審議にあたって、審議拒否を否定する西尾と、社会党などと共同歩調をとって自民党に対峙しようとする国会議員団長の水谷との間で確執が生じ、党運営に混乱が生じることになった[26]。また、新鮮なリーダーを外部から招くことを考えており、森戸辰男元文相や蠟山政道お茶の水女子大教授に党首就任を要請したが、両名に拒否されたためやむなく自ら委員長を引き受けた。

2月3日には日比谷公会堂で2000人を集め、政権をとらない政党はネズミを捕らないネコのようなものでナンセンスだとしつつ、5年以内に政権を獲得するという野望を語った。4月の世論調査では政党支持率は社会党に次いで3番手の12.1%となり、「次の総理は」という質問では岸信介についで2番手の11.5%となるなど、国民からは一定程度の期待が寄せられていた[27]

6月に新安保条約が自然発効した後、自民党の福田赳夫から、岸信介の後継首相への誘いを受けた(西尾暫定政権説)。福田はイギリスのマクドナルド挙国一致内閣にならい、労働者にも保守勢力からも信頼を集める西尾を立て、自民党が与党として協力することで、60年安保で混乱した政局を収拾しようとするものであったが、西尾が断ったため幻となった[28]

1960年1月24日、西尾らは民主社会党を結成した。

同年の衆院選では議会主義擁護を掲げ、社会党と対決姿勢を取った。しかし、10月12日日比谷公会堂浅沼稲次郎暗殺事件が起こると「しまった」と言ったという。社会党に同情が集まることを恐れたのである[29]。結果、衆院選では23議席減の17議席で完敗。厳しい船出となった。しかしその後、党勢は次第に回復増大、1966年(昭和41年)の第31回衆議院議員総選挙では30議席を確保、野党勢力の一角を形成することに成功する。

1964年には、「野党が外交問題について政府与党の方針を批判し、建設的代案をもってこれと戦うことは当然であるが、ともすれば、平和論や外交路線で保守の方針に反対することが確信の唯一のあり方だとするこれまでの野党のマンネリズムを根本的に打破することが必要だと痛感する」と発言し、同大会で「一つの中国・一つの台湾」を基調とする決議を行った。これは中華人民共和国を中国の主人公と認めて国連での代表権を与え、他方で中華民国の台湾における暫定的な地位を認め、最終的帰属は住民の意思で決定されるというものであり、春日委員長時代に「一つの中国」に転換するまで堅持された[30]

1965年(昭和40年)の日韓基本条約批准をめぐっては、民社党内でも賛成派の西尾と反対派の門司亮永末英一らに分かれた。最後は佐々木良作国会対策委員長が押し切って賛成に回った[31]

1967年(昭和42年)2月22日、社会党委員長の佐々木更三は記者会見で「民社党は第二保守党」と発言した。これを聞いた民社党書記長の西村栄一は「三党政策協定ができたばかりのところへ、わが党を侮辱するとは何事だ」と怒り、「社会党は第二共産党」と言い返した[32][33]。西村にそう言わせたのは西尾だともいわれる。同年4月の統一地方選挙後、西尾は委員長を退任して西村書記長を後任に指名した(翌々年1969年<昭和44>11月民社党に名称変更)。常任顧問となった後も党内で一定の影響力を持ち、1970年6月15日に西村が社公民三党の提携と統一を突如打ち出した際には、翌月の幹部協議会で当面の社会・公明両党との統一は不可能と述べ、「西村君に民社党をまかせておくことに不安を感じる」とまで言った。西村は「同志であるならば私を信頼していただきたい」と反駁したが、伊藤と佐々木良作書記長のとりなしで食事を終えて散会した。結局西尾は最後まで了承せず、1973年には「公明党は、もともとクラゲのような無性格な政党」と評している[34][35]

1972年(昭和47年)第33回衆議院議員総選挙は立候補せず、政界から引退した。

1963年には永年在職議員として表彰され、1965年4月の春の叙勲で勲一等瑞宝章[36]、さらに1972年4月の春の叙勲で旭日大綬章を受章する[37]

1981年(昭和56年)10月3日午後2時25分、脳内出血と腎不全のため入院していた京浜総合病院[38]にて死去。90歳没。同月6日、特旨を以て位記を追賜され、死没日付で正三位に叙され、銀杯一組を賜った[1][39]

エピソード

性格

若いころから酒を飲んで大騒ぎすることを好まず、片山内閣時代も新聞記者やGHQ関係者と食事を共にすることは一度もないほどの社交嫌いであった。後になって「この社交嫌いは、私の一つの性格的欠点でもあることを、近ごろはチョイチョイ反省することもある」と語っている[40]。後輩を贔屓することもなく、親分らしくない、冷たいと批判されたこともあるという[41]

旋盤工の経験からか極度に几帳面であり、「よそへ行っても応接間に入って額などちょっとでもゆがんでいるとすぐ目についてなおしたくなる」が、何とか辛抱していると発言したこともある[42]。また、「しばらくお待ちください」と言われると、「しばらくとは何分ですか」と返すなど、時間には厳しかった[43]

対人関係

河上丈太郎との関係

1959年の社会党党大会で西尾が左派に糾弾された際、河上が「西尾君が労働者階級を裏切ったことが一度でもあっただろうか」と弁護を行ったこともあり、西尾は「人間河上丈太郎は満点」としながらも、1955年の左右社会党統一の際の河上の発言が理論的でないことを理由として、政治的な見識のない人物と評している[44]

浅沼稲次郎との関係

1959年の社会党党大会の際に書記長を務めた浅沼の対応に不満を持っており、鈍重で、小心翼々としたところがあり深みがないと手厳しい評価を下している[45]

自民党政治家との関係

西尾は自派閥以外の社会党政治家に対しては厳しい評価を与えていた反面、自民党の政治家、とくに佐藤栄作池田勇人に対しては高い評価を与えている。片山内閣の組閣時に、官房長官である自信を補佐する役人として、当時運輸次官の佐藤栄作と大蔵次官の池田勇人に目を付けたが、両名には断られた。しかし西尾は、佐藤については「なかなか切れそうな人物」、池田については「一種の根性を持った男」で義理堅く人情味がある、と高く評価、自由党幹事長の岸信介に対し、「池田君は将来、保守党を背負って立つ男だよ。君とは、ことなった持ち味をもっている。だから、二人が手を組めば鬼に金棒で、日本の保守党を、ほんとうに立派なものにすることができる」と語っている[46]。その後、佐藤・池田・岸はいずれも内閣総理大臣に就任し、西尾の目利きが証明された[47]

勲一等旭日大綬章勲一等瑞宝章を着用した西尾(1965年4月29日)

逸話

知る人ぞ知る逸話として、日本経済新聞紙上にペンネームで映画評論を執筆しては投稿する程のシネ・フィルであったという。1967年(昭和42年)の民社党委員長退任時、NETテレビ(現・テレビ朝日)のモーニングショーに出演中、委員長辞任を生放送のスタジオで告白。司会の木島則夫(後に木島自身も民社党から出馬している)らが呆気に取られる中、「僕の好きな『ローハイド』のテーマをリクエストします」と言い放ち、BGMの流れる中、西尾はスタジオを後にした。

1964年第6回民社党大会にて「われわれは中共(ママ、以下同様)問題については、かねてから中共の誤った戦争肯定論や核武装、近隣諸国に対する膨張政策を厳しく批判しつつも、中共という中国本土を制圧した政府のいる現実を直視し、これとの友好関係の樹立と国連の加盟にわが国が積極的に努力すべきことを主張してきた。わが国は中共を『一つの中国の主人公』として認める一方、台湾の最終的な帰属については"台湾住民の意思を尊重する"という一つの中国、一つの台湾という方針に国論を統一すべき」と述べ、1970年に蔣介石から招待され、訪台した際に「長年、中国共産党と戦ってこられた総統のお気持ちは十分理解できる。しかし今となっては大陸反攻は無理である。なによりも再び中国全土や台湾が戦禍に巻き込まれ、民衆が塗炭の苦しみを味わうことになる。このことを是非考えていただき、大陸反攻は思いとどまっていただきたい。それより総統の卓越した指導力で、この台湾に王道楽土、自由民主主義国家のモデルになるような国家を建設していただきたい。中国本土を見返すような立派な国づくりをしていただきたい。それが中国共産党への真の勝利です。そうした国づくりのためならば日本もお手伝いさせていただきましょう」と語り蔣介石は不興げであったが、西尾が退席後に通訳の林金莖に対して「意見の違いはともかく、西尾という政治家はいままで会った日本の政治家のなかで、吉田茂に勝るとも劣らない超一級の政治家だ」と激賞した。 [48]

著書・評伝

  • 『西尾末広の政治覚書』毎日新聞社、1968年4月。NDLJP:2992883 - 口述、執筆は宮内勇
  • 『大衆と共に : 私の半生の記録』日本労働協会、1971年8月。NDLJP:12189534
  • 加藤日出男『風雪の人 西尾末広 静かに燃えた政界一番星』根っこ文庫太陽社、改訂版1982年
  • 江上照彦『西尾末廣伝』「西尾末廣伝記」刊行委員会、1984年9月10日。NDLJP:12263259
  • 梅澤昇平『西尾末廣 皇室と議会政治を守り、共産運動と戦った男』展転社、2023年。ISBN 978-4886565594

脚注

関連項目

外部リンク

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