西川一三
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1918年(大正7年)9月17日、山口県阿武郡地福村(現在は山口市に編入)で西川常吉の次男として生まれる[注釈 1]。1936年(昭和11年)に福岡県中学修猷館を卒業すると南満州鉄道(満鉄)大連本社に入社したが、「西北」への憧れから1941年に満鉄を退社し、駐蒙古大使館が主宰する情報部員養成機関、興亜義塾に入塾する。
1943年に同塾を卒業後、駐蒙古大使館調査部情報部員となるや、東條英機首相より「西北支那(中国)に潜入し、支那辺境民族の友となり、永住せよ」との特命を受けたとされる[注釈 2]。そのためにチベットに潜入を計るが、当時チベットは外国人の入国を禁じていたため、チベットに巡礼に行くモンゴル僧「ロブサン・サンボー」[注釈 3]と身を偽っての旅となった。1943年(昭和18年)10月下旬[4]、協力者のラマ僧3人と共に内蒙古のトクミン廟を発ち、寧夏、甘粛、青海を巡って、1年10ヶ月に及ぶ単独行の後、1945年にチベットの都ラサに潜入することに成功する。この潜行の間、外務省への報告は、当初現地の協力者に靴に縫い込むなどして運ばせていたが、現地人に迷惑を掛けたくないとの思いからこの方法を途中で止め、その後は、日本に帰国するまでの膨大な地理情報・見聞・行動記録を、全て自分の頭に記憶していった。
その後、日本の敗戦を知るも、地誌と地図を作成する任務を放棄せず、外務省からは送金も援助も無い孤立無援のまま続行。モンゴル僧としてデプン寺に入り、1年間にわたって本格的な仏教修行と、猛烈な語学の学習を行い、蒙古人ラマとしての信頼を獲得し、ようやく平穏な時を持つ。その後、同じ興亜義塾出身で情報部員として潜入していた木村肥佐生と秘境西康省踏査[注釈 4]の協力を約した。1947年(昭和22年)1月末、デプン寺の師から巡礼の許可を得る[5]と、ラサを発ちチャムドを経て西康省の省都であった打箭炉(後の康定)を目指すが、そのルートに匪賊が多いと聞き行き先を青海省の玉樹に変更。偵察を終え6月初旬に玉樹を発つ[6]とナクチュを避け、セルツェカルナタン経由でラサに戻った。その後、木村と入れ替わりにチベット新聞社で印刷職工、新聞記事の中蔵翻訳などをしながら過ごし1年後に退社。チベット仏教シーチェバ派の師に付き修行後、免許皆伝。修行僧となり托鉢をしながらブータン、シッキム、インド、そして当時チベットと同様に鎖国状態だったネパールなど各地を旅する。ボダナートでは漢人ラマ僧である村長に大いに気に入られ2ヶ月ほど滞在。その後、入国にビザが必要なビルマに潜入するため、移民として入るネパール人に紛れ込むことを計画。まずインド北部のティスタ川に架ける鉄道橋を造る苦力の一員となり、チベット人やネパール人と共に働いて彼らの信頼を得た。しかし1949年(昭和24年)10月、苦力頭として働いていたところ、先に官憲に出頭して逮捕されていた木村肥佐生の供述により日本人であることが露見、逮捕収監されてしまう[注釈 5]。
1950年(昭和25年)5月12日、カルカッタの港から英国船籍の8000t級貨客船、サンゴラ号で出港。ペナン、シンガポール、香港を経由して日本へ向かった[注釈 6]。 6月、神戸港に到着。山口県の実家に帰ると弟の貞三が家業を継いでいた[注釈 7]。
帰国して1ヶ月も経たない頃、西川はGHQから不意の出頭命令を受ける。しかし、東京に到着した西川は、GHQに向かわず、先に外務省を訪れた。各地域の調査報告を求められたら協力するつもりであったからである。ところが、外務省は情報の宝庫のような西川に無関心で相手にしなかった。それに対し、GHQは西川からの情報収集のために一部屋をあてがい、1年間にわたって、西川から西域潜行での情報を詳細に聴取している。その聴取は日曜以外毎日午前9時から午後4時まで、日系通訳と部屋にこもり、質疑応答が繰り返され記録されていった。昼食も部屋で食べ、用便以外はここから出ることも、通訳とむだ口を交わすこともなかった。この見返りとして、GHQは当時の金額で一日当り千円を支払っている(この年の大卒初任給は5千円程)。
また、登山家の西堀栄三郎は、1952年に初めてネパールに入国するにあたり、数度に渡って西川を自宅に招き、チベットやネパールなどの現地情報を収集している。その後、盛岡市で理美容材卸業を営み、元旦以外は休まず働き続けたという。
1958年(昭和33年)7月に静岡県出身の石川ふさ子(1925年生)と入籍、翌年秋に一人娘の由起を授かる[11]。また、なかなか日の目を見ずにいた原稿がついに出版されることになり、1967年(昭和42年)11月に上巻、翌年2月に下巻が発売された[注釈 8]。世間の反響は想像以上で作家や学者、冒険家などから多くの賛辞が寄せられる。部数は多くないが、本はゆっくりと版を重ねた[12]。
2003年に副鼻腔癌が見つかり仕事を引退。2008年(平成20年)2月7日、肺炎のため盛岡市内の病院でこの世を去った。享年89[13]。奇しくも当日はチベット暦の元日となる日であった。
人物
著作
- 『秘境西域八年の潜行』 芙蓉書房(上・下・別巻)[注釈 10] 1972年、新版1978年
- 中公文庫(上中下、決定版)1990-91年/中公文庫BIBLIO(抄版)2001年/中公文庫 Kindle版(電子書籍 全6巻)2014年