西牟田城
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由緒・歴史
西牟田築城
嘉禎年中(1235年-1238年)、西牟田彌次郎家綱(行西)が、鎌倉幕府の命を受けて伊豆国三島より筑後国三瀦郡西牟田村に地頭として赴任し、西牟田城を築いたとされる[4][5]。
大友氏の筑後支配
室町時代の西牟田氏は、豊後国大友氏傘下のいわゆる「筑後十五城」の城主の一人であった(江戸時代より前は、領主のことを「藩主」とは言わず「城主」と表現した)。
筑後の国人領主に対する大友氏の支配は、苛斂誅求を極めた。大友氏は、領国中どこで戦いが始まっても彼らに出兵を命じ、筑前国、肥前国、肥後国はおろか豊前国や日向国の奥地までも従軍させ、南征北伐に駆り立てている。また、任官、叙位、家督相続、城の移転、改造等についてすべて大友家の裁可を得なければならないだけでなく、大友家発行の証札なしには他国はもちろん自国内ですら自由に通行ができなかった[6]。
繰り返される反乱
西牟田氏は、斯かる大友氏の支配に対し、しばしば叛旗を翻している。天文3年(1534年)9月には、西牟田播磨守親毎・親氏父子が他の筑後国衆とともに大友氏に背き、その大軍と戦って討死している。また、天文19年(1550年)にも、西牟田鎮豊が反大友の軍事行動を起こし、鎮圧されている[7][8]。
龍造寺に属し、生津城へ移る
天正6年(1578年)、肥前を平定した佐賀の龍造寺氏が筑後へ進出してくると、西牟田鎮豊は大友氏の傘下を離れて、龍造寺方に参陣したが、大友氏からはさらに激しい攻勢に晒されるようになった。
天正7年(1579年)、西牟田鎮豊は新たに堅固な本拠地として生津城を築き、そこに移った。
