西田善夫
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NHK入局まで
東京都出身[4]。聖学院中学校・高等学校を経て1958年に早稲田大学法学部卒業後、NHKにアナウンサーとして入局[5]。
室蘭・札幌時代
初任地は自ら希望した室蘭放送局。この際、大先輩の志村正順から「君、何故室蘭を希望したの?」と不思議がられて尋ねられたという[6]。およそ3カ月の研修を経て室蘭に赴任すると、着任の年に「争議とスポーツ──試合の出来ないオリンピック選手」というテーマで、労働争議のさなかにあったアイスホッケー選手の苦悩を取り上げた番組を提案。新人のうちからスポーツの社会問題に関わる番組提案をするのは極めて珍しく、学生時代に培ったスポーツに対する深い見識が表れたスタートであった[7]。
その後札幌放送局に異動。1964年、東京オリンピックでは、当時としては最若手実況(バレーボールを担当)として抜擢された[8]。入局わずか6年で全国向け放送に起用されたのは当時としては目立って早く、スポーツに取り組む姿勢と伝える力が当初から図抜けていたことを物語っている[7]。
実況アナウンサーとしての活躍
その後プロ・アマの野球を中心とする各種スポーツの実況を担当。
昭和40年代は広島放送局に勤務した。外木場義郎の完全試合も広島市民球場で見たのが自慢と言う。こういった関係からか広島カープファンだったようで、カープ関係のイベントでもよく広島に招かれていた。
バレーボールでは日本バレーボール協会公認審判員の資格を取得しており、若手アナウンサー時代には学生バレーボール大会の審判を務めた経験があることを語っている[9]。
スポーツ番組キャスター・解説委員
1978年に放送を開始したスポーツ帯番組『スポーツアワー』のキャスターを務めた[10]。その後『サタデースポーツ』『サンデースポーツ』でキャスターとして活躍。スターアナウンサーたちが実況中心で仕事をよしとする時代にあって、西田はどのような形態の番組もいとわなかった[7]。
1991年にはスポーツアナウンサーとして初めてNHK解説委員に就任。1993年には『サンデースポーツ』のキャスターに就任した[7]。1996年に定年退職した。
NHK退職後
定年退職後は鹿屋体育大学客員教授、立教大学教授、聖学院大学客員教授を歴任[5]。聖学院大学では基礎教育科目「話し方表現」の授業の創設にも尽力し、学生の表現力育成に貢献した[4]。
1998年、新設された横浜国際総合競技場(現・日産スタジアム)の初代場長に就任[5]。放送の世界からスタジアム管理という未知の領域に転じたが、研究熱心な性格から競技用芝の専門家となった[7]。2002 FIFAワールドカップでは決勝戦会場の責任者として大会の成功に尽くし[4]、2002年に退任してスポーツ評論家として活動した。
また、東京都北区教育委員会委員、学校法人聖学院評議員・同窓会長、総務省「スポーツ拠点つくり推進委員会」委員、野球殿堂特別表彰委員なども務めた[4]。
死去
2016年2月27日、心不全のため死去[1][2]。80歳没。告別式は3月2日に東京都北区上中里の日本基督教団滝野川教会で営まれ、喪主は長男の西田善太が務めた[3]。
オリンピック放送
東京大会からトリノ大会まで、夏冬合わせて計10回のオリンピック放送に携わった[3][4]。主な担当大会は以下の通り。
| 年 | 大会 | 主な担当 |
|---|---|---|
| 1964年 | 東京大会 | バレーボール実況(最若手として抜擢)[8] |
| 1972年 | 札幌冬季大会 | アイスホッケー等 |
| 1972年 | ミュンヘン大会 | レスリング等(男子バレーボール金メダル実況) |
| 1976年 | インスブルック冬季大会 | |
| 1976年 | モントリオール大会 | 女子バレーボール決勝戦実況・閉会式 |
| 1980年 | レークプラシッド冬季大会 | アイスホッケー(「ミラクル・オン・アイス」米ソ戦)・開会式 |
※このほか2006年トリノ大会まで継続してオリンピック放送に関わった。
なお、1980年モスクワ大会は日本がボイコットしたため、放送機会が失われた。山本浩はこの点について「日本が参加して放送のチャンスがあったならば、西田は今とはまた違った評価を残したのではなかったか。ボイコットは、当時脂ののりきったアスリートだけではなく、放送関係者にもそれなりの傷を残している」と述べている[7]。
名実況
「笑顔の優勝です。泣かない優勝です」
1976年モントリオール大会の女子バレーボール決勝戦で、"新・東洋の魔女"と言われた山田重雄率いる日本女子代表の金メダル獲得を実況。優勝の瞬間に放った「笑顔の優勝です。泣かない優勝です」は名フレーズとして広く知られている。
「この際、私も立ち上がります」
1980年レークプラシッド冬季大会のアイスホッケーメダルラウンドで、後に「ミラクル・オン・アイス」として世界のスポーツ史に刻まれることになるアメリカ合衆国対ソビエト連邦戦のテレビ実況を担当した。札幌大会以来、冬季オリンピックの度にアイスホッケーを担当していた西田は、既にこの競技の第一人者として知られていた[7]。
圧倒的な優勝候補だったソビエトに学生主体のアメリカが立ち向かい、第3ピリオドで勝ち越しに成功して残り時間が少なくなるシーン。放送席の周囲が全員立ち上がってしまい、モニターは見えるがリンクが見えない状態となったため、西田も解説者とともに立って実況を続けることになり、「この際、私も立ち上がります……」と発した[11]。後に西田は「あとから『全く意味のないコメントだ』と言われました」と振り返っている[11]。山本浩はこの場面について「高いレベルの緊張感を糸の張りを緩めないまま、聞き手の意識をプレーからちょっとだけ外す。相当に高度な、豊富な経験に裏付けられた実況法」と評している[7]。西田自身もこの米ソ戦を自身の実況における「ベスト1」に挙げている[11]。
レークプラシッド大会 開会式
同じくレークプラシッド大会では、前年暮れのソ連のアフガニスタン侵攻を受けて異様な雰囲気の中で行われた開会式の実況も担当。「4年たって閏年が来れば、オリンピックはやってくるものと思っていました。今、失いかけて、オリンピックが開ける価値を始めて知りました」と伝えた[11]。
ミュンヘン大会 レスリング優勝インタビュー
1972年ミュンヘン大会では、レスリング男子フリー52キロ級で金メダルを獲得した加藤喜代美選手への優勝インタビューも印象深い。「この優勝を誰が一番喜んでくれますか?」という質問に対し、加藤選手が「僕はオリンピックのために結婚を1年延ばしています。だから待っていてくれている婚約者です」と答えると、西田は「婚約者の平野美恵子さん!お待ちどうさま。加藤選手は4日の月曜日、その一便で日本に帰ります」と応じた[11]。西田自身、この試合を自身の実況「ベスト3」に挙げている[11]。
その他の名実況
- NHKがワールドシリーズ中継に初めて取り組んだ1977年のニューヨーク・ヤンキース対ロサンゼルス・ドジャース戦の実況を担当。日本におけるメジャーリーグ中継の先駆者としても知られる。解説は元読売ジャイアンツ監督の川上哲治と藤田元司、ゲストは当時中央大学在学中の福島良一が務めた。
- 1989年の第61回選抜高等学校野球大会決勝(東邦対上宮戦)では、思いがけない結末にも「勝って泣き、負けて泣くセンバツの決勝!」と冷静な口調で実況した。
- 1972年ミュンヘン大会の男子バレーボール金メダルも、自身の実況「ベスト2」に挙げている[11]。
実況哲学
実況に対する考え方として「"考えた言葉"は意外にあてはまらない。一瞬、思い浮かんだものを大事にしたほうがいい」と語っている[11]。
2004年のアテネ大会で後輩の刈屋富士雄アナウンサーが体操男子団体の実況において「伸身の新月面が描く放物線は、栄光への架橋だ!」と発し、一部の先輩アナウンサーから「作った言葉を言うのはおかしい」と批判の声が上がったことについて、西田は「僕はあれもすばらしい言葉だと思います。どこでどう作ろうが、みんなを感銘させたことはすばらしい」と擁護。さらに、演技開始直前の「冨田が冨田であることを証明すれば、日本は勝てます」というフレーズにこそ注目し、「勝ちます」ではなく「勝てます」としたところにギリギリの状況を掴んだ実感が表れていると指摘した[11]。
また、放送哲学として「テレビは一緒に見るもの、ラジオは語りかけるもの」とも述べている[11]。
元NHKアナウンサーの山本浩は、西田の実況スタイルについて「声を売るよりむしろストーリーとその組み立てを大切にした」「先人たちがしたような『語る』のではなくあくまで『伝える』を基調とし、『解き明かす』ことに力点が置かれていた」と評している[7]。
人物
- 元NHKアナウンサーの山本浩は、西田を「社会派のスポーツアナウンサー」と評し、「ことばの流れよりむしろそこにある事実を大切にする。プレーと結果との間に隠れたものをそれとなく質しにかかる。優しい口調で伝えたにもかかわらず、あるときはそれが鋭い指摘に聞こえ、ユーモアのセンスをたたえながらそれが警句に響くことがあった」と述べている[7]。
- 甲子園の選手通路でのインタビュー力にも定評があり、山本は「偉丈夫だったから、人混みが周りを取り囲んでいても一人だけそびえるように立っているのが見えた。遠くから眺めているだけで、聞かれる側が心の芯を揺さぶられているのがわかる」と回想している[7]。
- 人の話を聞く際には「そうかそうかそうか」と短い間の手を繰り出す癖があった[7]。
- 同時代のNHKスポーツアナウンサーには北出清五郎、鈴木文弥、土門正夫、杉山邦博、羽佐間正雄、向坂松彦ら個性の強い人材がそろっていた[7]。
- 長男は雑誌編集者の西田善太(マガジンハウス取締役、元『BRUTUS』編集長)。
- 日本基督教団滝野川教会の信徒であった[3]。
- SBIモーゲージ所属の住宅ローンアドバイザーに同姓同名の別人がいる。
同期入局
以下は1958年NHK同期入局の人物。
- 野際陽子(退職後俳優に転身、2017年没)
- 佐藤隆輔(現・フリーアナウンサー)
- 大澤和宏(現・名古屋テレビ塔株式会社社長)