7世紀末から8世紀初頭に成立した常陸国の郡や郷は、律令制の動揺とともに在地の豪族など諸勢力による細分化、再編成が進んだ。
のちの西那珂郡にあたる領域を含んでいた新治郡(古代の新治郡[1])も、初めに小栗御厨が伊勢神宮領として分出し、残った領域が更に分割されて東郡、中郡、西郡の三郡に分かれた。この中郡の名は、その後の荘園化や荘園の衰退を経ても使われ続けた。
文禄年間の太閤検地にて、中郡の領域に西那珂郡が設置された。元々同じ常陸国内の那珂郡(なかぐん)と読みが被るため、那珂郡よりも西に位置することから西中郡(にしなかぐん)と呼ばれていたという。
ただし新治郡分割の際に中郡が那珂郡に飛び地編入されたため西那珂とされたとする資料もある。