「Xが道徳的であるならば、好むと好まざるとにかかわらず、Xをすべきである」という言明がなされるとき、それがどのような意味をもつのかは明らかではない。道徳は時に、行動に対する特別な拘束力を有していると想定される。だが、「べき(ought)」という言葉を上記のように用いることは、道徳に魔術的な力を帰する過ちを犯していると一部の哲学者は考える。G.E.M.アンスコムは、「べき」という言葉が「呪術的な力を持つもの」となってしまったことを憂いている[2]。また、イギリスの倫理学者フィリッパ・フットの考察によれば、道徳には特別な拘束力はなく、人々が道徳的に振る舞うのは、道徳以外の要因に動機づけられるときに限られるという。
もし無道徳な(amoral)人がいたとすれば、その人物はいかなる道徳的な要求にもかかずらわる理由をもたない、と断言するだろう。もちろん、その人の考えは誤っているのかもしれず、自己中心性によりその人と周りの人々の人生は台無しにされているのかもしれない。だが、ここでのポイントは、この問題が「べき」という言葉に強い意味を与えることで解決しうる、ということではない。私が述べたいことは、そのように考えてしまう人々は、道徳語である「べき」に魔術的な力を与えようという幻想にとらわれている、ということである。
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フィリッパ・フット
フットはこうも言う。「道徳の『拘束力』について語られるさい、我々は道徳から逃れがたいような感覚を覚える、という以上に、どういう意味があるのかは明らかではない」。フットが述べようとしていることはこういうことである。つまり、誰にもばれずに本を盗むことができる機会を得たとき、盗むべきでないという責務を人が感じない限り、道徳的責務はそれ自体では我々を止める力を持たない、ということだ。したがって、道徳には人間の通常の動機を超える拘束力は持たず、人が道徳的に振る舞うには動機がなければならない、ということになる。ここで問題になるのは、道徳的行動を動機つける上で、理性(reason)はいかなる役割を果たすのか、という問いだ。
定言命法という考えによれば、適切な理性(reason)は常に特定の道徳的行動を導く。だが、上記で述べたように、フットはそのようには考えない。彼女によれば、人間は実のところ、欲求に動機づけられている。この観点から見ると、適切な理性によって、人は自らが欲するものを得るための行為を見出すことができる(仮言命法)。そして、その行為は必ずしも道徳的なものではない。
社会構造や社会的動機は、ある意味において道徳に拘束力を持たせることができるが、それはただ道徳規範を逃れがたいように感じさせているにすぎない、とフットは述べる。加えて、ジョン・ステュアート・ミルは、他者を満足させようという外的な圧力もまた、この感覚的な拘束力に影響を与えるとし、彼はそれを人間の「良心(conscience)」と呼んだ。ミルによれば、人間はまず、何が道徳的であるかを推論(reason)し、しかる後、自らの理性に整合するよう自らの良心の感情を整えるよう努めねばならないという[4]。それと同時に、良い道徳体系(彼にとっては功利主義)は究極的には人間の本性の諸側面に訴えかけるものだとミルは考えた。そしてその本性は、しつけによって身につけられねばならないものだとされる。ミルは次のように論じている。
人類の社会的感情こそが堅固な基礎である。それは、同胞と繋がりを保っていたいという欲求であり、人間の本性にもともと備わった力強い原理だ。ありがたいことに、言葉で教え諭さずとも、文明の進歩の影響のおかげで、この原理は力強さを増しましている。
ミルの考えでは、道徳的行動を突き動かしているのは感情であるが、一部の人々(例:サイコパス)にはそのような感情が欠けている、ということを認識することが重要だという。ミルはさらに、人々が確実に良心を育み、道徳的な行動をとるよう促す要因について論じた。また、ジョセフ・ダライデンのような思想家は、社会が科学を用いて、人々をより善良にする可能性を高めるにはどうすればよいかを考察した。