観察不能
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観察不能(かんさつふのう、英:Unobservable、impalpable )とは、その存在・本性・諸性質や関係が、人間には直接には観察できないような存在。科学哲学では、観察不能の典型例として、重力、因果、信念や欲求が挙げられる。[1][2]観察可能なものと不可観測なものの区別は、イマヌエル・カントのヌーメナとフェノメナの区別、ならびにジョン・ロックの第一性質と第二性質(英語版)の区別において中核的な役割を果たす。どの対象を観察不能に分類すべきかについては大きな異論がある。たとえば、顕微鏡で研究される細菌や霧箱で研究される陽電子を不可観測と見なすべきかどうか、などである。観察を妨げる障害の種類に応じて、観察不能のさまざまな概念規定が提案されてきた。
ロックの第一性質と第二性質
科学哲学
観測不能に関する存在論的性質および認識論的問題は、科学哲学における中心的テーマである。科学理論が措定する観察不能が実在するとする立場は科学的実在論と呼ばれる。これは道具主義と対照的であり、道具主義は、観察不能を支持することが理論にとって有用であっても、その存在論的コミットメントは留保すべきだと主張する。
観察可能性の概念は構成的経験主義において中心的な役割を果たす。バス・ファン・フラーセンによれば、科学理論の目標は、あらゆる存在についての真理ではなく、観察可能なすべての存在者についての真理である。[4]理論がこの限定された意味で真であるとき、それは「経験的に充足している」理論と呼ばれる。ファン・フラーセンは観察可能性を反事実的に次のように特徴づける。「X が観察可能であるとは、ある種の状況が存在して、そのような状況のもとでXがわれわれに現前するならば、われわれはそれを観察する、ということである」。[5]
この種の定義に伴う問題の一つは、観察不能の外延を厳密にどこまでとるかを決めることである。裸眼で補助なしに知覚できる日常的な対象が観察可能であることについては、ほとんど異論がない。たとえば樹木、椅子、犬などである。しかし、無補助の知覚が及ばない場合には議論が生じる。たとえば、望遠鏡による遠方銀河の研究[6]、顕微鏡による細菌の研究、霧箱による陽電子の研究などである。[5]
こうした事例に動機づけられ、観察可能と不可観測の区別そのものの有効性を一般的に疑問視する哲学者もいる。[7]