関係 (哲学)
From Wikipedia, the free encyclopedia
学術文献では多くの型の関係が論じられてきた。内在的関係(たとえば類似性)は、被関係項の単項的性質にのみ依拠する。これに対し外在的関係(たとえば空間関係)は、被関係項それ自体がどのようなものか(性質)を超える特徴を表す。形式的関係(同一性など)は抽象的で主題中立的な観念を含むのに対し、実質的関係(愛する、など)は具体的で内容豊かな中身をもつ。論理的関係は命題どうしの関係であり、因果関係は具体的な出来事を結びつける。対称的・推移的・反射的といった関係は、その構造的特徴によって区別される。
形而上学的な難問—たとえば、関係はどこに「所在」するのか—は、関係の存在論的地位をめぐる議論の中心にある。消去主義は、関係は外的現実の一部ではない心的抽象だとする立場である。より穏当な立場が還元主義で、関係は単項的性質など他の実体に還元して説明でき、現実への実質的付加ではないと主張する。これに対し実在論は、関係が心から独立して存在するとする。実在論の強い形態である関係主義は、現実の根本水準が全面的に関係的であると述べる。歴史的には、消去主義と還元主義が優勢であったが、19世紀末になると数学・論理学・科学における様々な展開によって、より実在論的な見通しが現れてきた。
定義と本質的特徴
関係とは、複数の実体が互いに関わり合っている仕方である。[1][2][3]それは実体どうしの結びつき・連関であり、これらの実体を全体として特徴づける一つの性質として理解できる。[4][5]
多くの関係は別個の実体のあいだで成り立つ。たとえば、長子は他の兄弟・姉妹に対して「年長である」という関係に立つ。しかし、一つの実体がそれ自身に関係する場合もある。たとえば、すべての実体はそれ自身に対して同一性の関係に立つ。[1][2]関係は、対象・人物・概念など多様な実体のあいだで成り立ちうる。[6]ある関係が実体のあいだに成り立つとき、その関係と実体が合わさって、一つの事実・状況を構成する。[7]
互いに関係づけられている実体は関係項と呼ばれる。[8][7]「関係(relation)」の語はラテン語のrelatioとreferreに由来し、「参照」「向けること」を意味する。[9][10]
数学と論理学では、関係は集合論的構造として定義される。たとえば「小なり(<)」という関係は、第一要素が第二要素より小さい順序対の集合として定義される。この集合には [1,2]、[1,3]、[2,17] のような対が含まれる。[5][11][1][12]関数は関係の特殊な型であり、一つまたはいくつかの要素がただ一つの他の要素に一意に対応づけられる。[13][11]
関係には、いくつの関係項をもつか、どの順序でそれらを結びつけるかといった、様々な特徴がある。[14][2][15]関係は性質(properties)と密接に関係し、いくつかの点を共有する。[2][7]
項数
関係の項数(またはアディシティ・アリティ)とは、その関係がもつ位置または関係項の数である。たとえば「より大きい」という関係は、小さい側の実体と大きい側の実体という二つの実体を含むので、項数は2である。隣接しているという関係も同様である。項数が2の関係は二項と呼ばれる。[14][2][15][16]三項の関係は項数が3であり、たとえば「与える」という関係は、与え手・受け手・与えられるものの三者を含む。「…のあいだにある」も三項関係であり、「5は2と23のあいだにある」のように、両側の二つと中間の一つを要する。[14][2][15][16][5]
単一グレードの関係は、項数が固定されており、常に同じ数の実体にのみ適用される。これに対し多グレードの関係では、関係項の数が場合によって変化する。[2][17][18]真の多グレード関係があるかどうかは議論がある。[2]D・M・アームストロング(英語版)のような理論家は、関係の項数は関係の本質的特徴であると主張する。この見解では、現実に根本的には多グレード関係は存在しない。[17][19]しかしこの見解は一般には受け入れられておらず、多グレード関係の事例が提案されてきた。候補としては、原因が複数の効果に、または逆に複数の原因が一つの効果に関与しうる因果関係、複数前提が結論を支持する論理的帰結、比較集団の大きさに応じて項数が変わる「…の中で最も背が高い」のような表現が含まれる。[2][17]多グレード述語は日常言語にも普通に見られる。たとえば「持ち上げる」は「ジョンがテーブルを持ち上げている」では二項だが、「ジョンとメアリーがテーブルを持ち上げている」では三項である。任意項をもつ述語(「ジョンはケーキを食べている」「ジョンは(何かを)食べている」)も同様である。[7]
方向と逆関係
関係の方向とは、要素どうしが関係づけられる順序である。[2][16][20][7]たとえば、アベラールがエロイーズを愛しているなら、愛するという関係はアベラールからエロイーズへ向かう。エロイーズがアベラールを愛するなら、方向は逆になる。これら二つの事実は構成要素を同じくし、方向だけが異なる。[7]なお、対称的関係では関係項の順序が差を生まないため、方向は問題にならない。[2][16][20]
非対称的(二項)関係の逆関係は、元の関係に常に付き従うが、要素の順序が異なる第二の関係である。たとえば「上にある」の逆関係は「下にある」である。すなわちxがyの上にあれば、必ずyはxの下にある。同様の例は「先行する・後続する」「…の親である・…の子である」などである。[2][21][2]二項関係にはちょうど一つの逆関係があるが、三項以上の関係には複数の逆関係がある。[2]
ある関係とその逆関係は同じ情報を担っている。このため、両者を二つの別個の関係とみなすべきか、それとも同一の関係とみなすべきかは議論がある。[2][20]この難点のため、非対称的関係の方向性を異なる仕方で捉え直したり、逆関係の存在自体を否定したりする哲学者もいる。位置主義によれば、関係には方向はなく、被関係項が埋める固有の位置がある。[2][22][7]たとえば愛という関係には「愛する者」と「愛される者」の二つの位置がある。[22]この見解は、関係が方向や逆関係をもつと言わなくても、関係項が関係の中で異なる役割を果たしうることを説明する。[2][7]
性質との対比
関係は通常、性質と対比される。性質は単一の実体に保持され、その実体がどのようなものかを表す。これに対して関係は複数の実体を結びつけ、それら全体に適用される特徴である。[12][17][7][5]近い言い方として、性質は実体に属し(内在し)、関係は被関係項のあいだに存する、という言い方もある。[2][7]
しかし、性質と関係のあいだには多くの共通点もあり、両者を厳密に二分することについては一般的合意がない。[12][17][7][3]世界に反復して現れるパターンを記述・説明するために、両者はいずれも用いられることが多く[2][7]、性質に適用される多くの存在論的区別は関係にも及ぶ。[17][7]たとえば、性質も関係も普遍として理解でき、特定の時空で個物に実現される。性質と同様、関係にも確定可能なもの(例:「(ある程度)離れている」)と、確定的なもの(例:「ちょうど1メートル離れている」)がある。[17]
性質や命題を関係の特殊型として把握することも可能である。この見方では、両者の違いは適用先の数にしかない:通常の関係は多項で複数の実体に適用され、性質は単項の関係として単一の実体にのみ適用され、命題は零項の関係でどの実体にも適用されない。[7][17][2][12]
逆に、関係を多項(関係的)性質として捉えることもできる。[12]一般に、関係にはそれに随伴する関係的性質があると認められている。すなわちxがyに対してある関係に立つなら、xはyに関係するという関係的性質をもつ。たとえば、アントニーがクレオパトラと結婚していたなら、彼は「クレオパトラと結婚している」という関係的性質をもっていた。しかし、関係を関係的性質として正しく理解できる、あるいはそれに還元できるとする見解は一般的ではない。[2]歴史的には、形而上学者たちは関係よりも性質に、はるかに多くの注意を払ってきた。[12]
種類
学術文献では、関係はその存在論的地位、それが適用される領域、そしてそれが形成する構造にもとづいてさまざまな型に区別される。[16][1][2]
内在的関係と外在的関係
内在的関係と外在的関係の区別は有力である。関係が内在的であるとは、その関係が被関係項の性質のみに依存する、すなわち被関係項の特性や本性だけで決まることをいう。これに対し外在的関係は、そのように固定されず、被関係項の内的特徴を越えた性格を帯びる。[2][12][17]数のあいだの数学的関係は内在的関係の例である。たとえば 6 は 5 より大きいという関係に立つが、これは6と5の本質として6>5が成り立つため内在的である。[12]そのほか古典的な内在的関係の例には類似や差異がある。[17]一方で空間関係は通常、外在的関係として理解される。たとえば、本とそれが載っている机の関係などである。[23][24][1]時間関係や因果関係についても同様である。[17]
もっとも、この区別の厳密な定式化については争いがあり、互いに両立しない定義が存在する。ジョージ・エドワード・ムーアによれば、関係が内在的であるとは、その被関係項が存在することから、その関係も存在することが帰結する場合である。つまり、その関係は被関係項にとって本質的であり、当の関係なしに被関係項は存在しえない。ムーアにとって外在的関係は、被関係項が存在していても成り立たないことがありうる点で異なる。[2][12][1][25][26]これと異なる定義を擁護するのがアームストロングらで、彼らは、関係が被関係項の性質(内的特徴)によって必然づけられるとき、それは内在的だとする。[2][25][26]デイヴィド・ルイスは、内在的関係は、その構成要素の内在的性質に付随すると述べ、やや異なる定式化を与える。[2][27]また、関連項の性質のみに依存する関係を理念的関係、そうでないものを実在的関係と呼ぶ哲学者もいる。[1]
どの定義を採るかによって、どの関係を内在的・外在的とみなすかが変わってくる。[25][2][26]例として同形(同じ形である)関係を考えよう。xが立方体でyも立方体なら、この関係が成り立つ。アームストロングによれば、これは x と y の内在的本性のみに依存するので内在的である。だがムーアにとっては、yは立方体ではなく球でありえた(参照:可能世界)ので、この関係はxとyの存在から必然化されておらず、外在的だということになる。[2]
この区別は、関係の存在論的地位にもさまざまな帰結をもつ。[1][17]一般的見解によれば、内在的関係は、被関係項に付随するため、現実の最も基本的水準の一部ではない。ある意味ではすでに被関係項の内に含まれており、存在への付け加えにはならない。[17][12][7]これは外在的関係には当てはまらず、それらは結びつける実体以上のものであり、追加の存在論的コミットメントを導入する。[12][7]関係の実在をめぐる議論は、通常、外在的関係が存在するかという問いに焦点を当てる。[1]この点での難点の一つは、外在的関係をどこに位置づけるかである。被関係項の内部には含まれないように見える一方で、被関係項なしに存在することもできないからである。[12]
形式的関係と実質的関係
別の区別は形式的関係と実質的関係[16][28](薄い・厚い関係、thin・thickとも[2])である。形式的関係は具体的内容を伴わない抽象的観念を含む。通説によれば、すべての形式的関係は内在的である。[2][16][28][29]形式的関係はしばしば主題中立的と特徴づけられ、存在のあらゆるカテゴリーに関わる。[29]実質的関係は具体的観念に結びつき、知覚経験にアクセス可能な特定かつ充実した内容を含む。
形式的関係の例には下記のものがある。
- 同一性
- 含意(論理的帰結)
- より大きい(>)
- 集合所属(∈)
- 類似
これに対し、実質的関係の例には下記のものがある。
論理的関係と因果的関係
論理的関係は思考の要素、とくに命題や叙述のあいだの関係である。二つの命題の真理値が相互に依存していれば、それらは論理的に関係づけられている。[30][31][32][33]ここで重要なのは、その命題が実際に真かどうかではなく、一方の真理値が他方の真理値にどう影響するかである。[33]
たとえば「ジョンは IQ が高く非常に人気者だ」と「ジョンは IQ が高い」は、前者が真なら後者は偽でありえないため、論理的関係にある。[31]論理的関係はアプリオリに見出され、論理学によって研究される。[33]主張を示したり証明したりする際によく用いられる。[32]
論理学で主要な関心は含意(論理的帰結)である。これは、推論が妥当な規則に従っているときに、前提と結論のあいだに成り立つ。前提が真なら結論が偽ではありえない、という関係を定める。[34][35]そのほか、反対(英語版)や矛盾といった関係もある。たとえば「コーヒーは冷たい」と「コーヒーは冷たくない」は矛盾で、一方が真なら他方は必ず偽である。反対は両方が偽になりうるが、同時に真にはなれない関係で、たとえば「コーヒーは冷たい」と「コーヒーは熱い」である。[31][36]
因果的関係は具体的出来事のあいだの原因・結果の関係である。[30][31][32][33]ある先行する出来事がのちの出来事をもたらすときに成り立つ。たとえば、白いビリヤード球が赤い球に当たり、それによって赤い球がコーナーポケットに向かって転がり出す場合、衝突という出来事と転がりという出来事のあいだに因果関係がある。[12]因果関係は経験科学で研究され、知覚経験を通じて知られうる。[33]何かがなぜ起きたかを説明するうえで重要である。[32]
因果関係は伝統的に外在的関係と理解されてきた。すなわち、効果が原因からどのように生じるかを定める外的な因果法則(自然法則)に従い、関与する出来事の内的本性によっては固定されない、とされる。また因果関係は通常偶然的とみなされ、そうであるがゆえに、別様でもありえた(法則が別様でありえた)とされる。[12][37]これに対する別の立場は、因果を法則ではなく対象のもつ力に即して理解する。ここでは、効果は対象の力の顕現である。この見方では、力が対象の内在的性質だと理解されるなら、因果関係は内在的関係ということになる。[12][38]
なお、「だから」という語で因果も論理も表現できるため、両者の区別はしばしば難しい。たとえば「ジョンは彼女を愛していたから戻ってきた」は因果を表し、愛が帰還の原因である。一方「ジョンは戻ってきたのだから、彼は彼女を愛していた」は、戻ってきたという事実から愛の存在を推論するという論理を表す。[30][32]
空間的・時間的関係
空間的・時間的関係は物理世界の構造をなし、具体的対象や出来事が互いにどう関係するかを組織化する。空間的関係は実体の所在や相互の距離に関わる(例:1メートル離れている、下にある、内部にある。)。[39][24]時間的関係は、あることが他のことに対していつ起こるかに関わる(例:以前に起こる、のちに起こる、同時に起こる。)。[40][41]通常、時空間関係は具体的対象間にのみ成り立ち、抽象的対象間には成り立たないとされる。[42][43][44]空間的・時間的関係はふつう外在的関係に分類される。[24]
時空の存在論的地位は、空間と時間をどう捉えるかに依存する。関係論では、時空とは、実体どうしが互いに立つ空間的・時間的関係そのものにほかならない。この見方では、空間的・時間的関係が基本的で、時空を構成する。これに対し実体主義は、時空はそれを占める実体から独立に存在する実体(実体的基体)だとする。[45][39][12]関係論者も実体主義者も、たとえば「東京と大阪は556.4キロメートル離れている」といった時空間関係に関する通常の言明は受け入れる。関係論者によれば、この文は東京と大阪の基本的空間関係があるから真であり、実体主義者によれば、東京と大阪が時空という実体の異なる離隔した領域を占めるから真である。[39]
古典物理学では、空間と時間は独立の、絶対的次元であり、互いに切り離して測定・分析できると理解された。現代物理学では、空間と時間は相互依存の次元であり、質量とエネルギーの存在によって曲率が影響を受ける統一的連続体を成すと見なされる。[46][47][48]
構造的特徴による分類
二項関係は、その要素の結びつき方に関するいくつかの形式的・構造的特徴によって区別される。
対称的関係と非対称的関係
- 対称的関係:xがyに関係すれば、必ずyもxに関係する。例:「同い年である」。トムがゾーイと同い年なら、ゾーイもトムと同い年である。
- 非対称的関係:対照的関係の持つペア状のふるまいが常には見られない。例:「愛する」。デイヴがサラを愛していても、サラがデイヴを愛しているとは限らない。
- 片方向的な非対称関係:非対称の特別な場合で、これは常に一方向にしか成り立たない。例:「より重い」。ベンがニアより重いなら、同時に逆は成り立たない。[1][2][11][5]
対称的関係は順序に不敏感(両方向に成り立つ)だが、非対称的関係では要素の順序が重要である。[2]
推移的関係と非推移的関係
推移的関係は鎖状の性格を示す。xがyに関係し、yがzに関係すれば、xはzに関係する。例:「より大きい」。トラックが車より大きく、車が自転車より大きければ、トラックは自転車より大きい。
非推移的関係ではこの鎖状のふるまいが常には成り立たない。例:「…の親である」。テスがボブの親で、ボブがキャロルの親でも、テスがキャロルの親とは自動的には言えない。[1][11][5]
反射的関係と非反射的関係
反射的関係では各実体が自分自身に関係する。例:「同い年である」。誰もが自分自身と同い年である。[1][11][5]
非反射的関係は、決して自己を結びつけない関係である。例:「兄弟・姉妹である」。誰も自分自身の兄弟・姉妹ではない。[49][1]
これらの構造的特徴は、さらに同値関係や狭義の半順序といった関係型の定義に用いられる。同値関係は、反射的・対称的・推移的な関係であり、たとえば「=」で表される同値がそうである。狭義の半順序は、非反射的・反対称的・推移的な関係で、たとえば「<」で表される「より小さい」がその例である。[50]
存在論的地位
形而上学では、関係の存在論的地位をめぐって様々な論争がある。関係には、実体や単項的性質といった他の存在論的カテゴリーには見られない特有の問題が伴う。関係は、結びつける当の実体に依存するという点で実体と異なる。[1][12]また性質とも異なり、関係は複数の実体に適用されるため、それらの関係項のどれか一つの内に所在させることができない。[2]
関係の存在論的地位は争われており、様々な理論が提案されてきた。大別すれば実在論と反実在論である。実在論者は、関係が心から独立した外的実在をもつとする一方、反実在論者はこれを否定する。[12][38][3][51][2]ただし両者のあいだには中間的立場も区別されうる。
厳密な反実在論である消去主義は、関係の存在そのものを否定する。やや弱い立場は、関係を精神の発明とみなす。別の見方は、関係の存在自体は認めつつ、それを非基本的な実在とするものである。これは還元主義者の立場で、関係は他の実体に還元可能な派生的実在だと主張する。強い実在論はさらに頑健で、関係を現実の基本的存在の一部だとみなす。[12][2]内在的関係と外在的関係の差異は、その存在論的地位にとって中核的であり、両者はしばしば別個に扱われる。[2]
関係の存在論的地位という問題は、一と多の問題と密接に結びついている。[1]これは、現実が同時に多性(多くの個別の実体があるため)であり、かつ一性(それらの個々の実体が一つの共通の現実に参与しているため)でもあることをどう説明するか、という問題である。[52][53]
所在問題
関係の存在論的地位に伴う多くの困難は、所在問題と結びついている。[2][38]所在問題とは、関係がどこに所在するかという問いである。[12][2][1][12][38]たとえば「広島は名古屋の西にある」という文は、「西にある」という関係にもとづいて二つの都市の所在を述べている。しかしこの文は、当の関係それ自体がどこに所在するかを指定してはいない。[2]
所在問題への解としていくつかの案が示されてきた。一つは、関係の位置は分割されるというものである。[2][1][12]この見方によれば、「西にある」という関係は、広島と名古屋の双方の内に宿る。[2]別の手法は、関係が被関係項のあいだの場所に存在するとするものだ。[1][12]さらに、関係は時空間内に位置をもたない抽象的対象であるとする理論もある。[2]
密接に関連するのは、関係がいかに関係項に依存するかという問題である。伝統的には、性質も関係も付帯性(依存的存在)として構想される。[38][12][54][16]伝統的見解では、性質はそれが特徴づける対象の内に位置づけられるとされる。しかしこの解は、とりわけ外在的関係に関しては難しい。なぜなら関係は単一の実体に内在するのではなく、実体相互を結びつけるからである。関係が外部に位置することは、関係が同時に依存的存在でもありうるのかを考えるうえで、さらなる困難をもたらす。[12][2][1]こうした位置づけの困難から、関係の存在を否定したり、関係は心の内の観念としてのみ存在すると主張する哲学者もいる。[2][12]
消去主義
関係についての消去主義者は、関係は存在しないとする。[2]彼らは、関係を現実の最も基礎的水準の一部ではない知的抽象物と見なすことが多い。[12]ある者はあらゆる関係を否定し、また別の者はとりわけ外在的関係に焦点を当ててそれを否定する。[2]彼らはしばしば、関係に随伴する存在論的問題、たとえば所在問題によって自説を正当化する。[38][2][12]形而上学的一元論者は、最終的に唯一の究極的述語主体しか存在しないと主張して、真正の関係の存在をしばしば退ける。[1]
よく知られた消去主義の論証がブラッドリーの無限後退(英語版)である。フランシス・ハーバート・ブラッドリーは、関係は無限後退を含むため存在しないと論じた。彼は関係を普遍として理解し、関係が二つの実体を結びつけるためには、関係自身がそれら二つに関係していなければならないと捉える。だがそのためには、第一の関係をその関係項に結びつける第二の関係が必要になる、と彼は主張する。ところが同じ問題が第二の関係の水準でも繰り返され、第三の関係が必要になり……と続く。これはあらゆる追加の関係に対して同じ問題が生じるため、悪性の無限後退に至る。ブラッドリーは、この逆説から関係は存在しないと結論づけた。[1][12][2]
ブラッドリーの結論は一般には受け入れられておらず、これを退けるための様々な議論が提示されている。一つのアプローチは、普遍としての関係と、個別の事例に対応する関係事実を区別することである。この見方では、関係と関係項の結合は、その関係を具現化(実例化)する事実によって与えられ、第二の関係を要しない。これに近い説明は、関係を普遍ではなくトロープという個物として理解する。[2][55]反対者は、事実やトロープが第二の関係を要することなくどのように関係を関係項に結びつけるのかを説明していないとして、これらの解決策は問題を真に解いていないと批判する。[2]ブラッドリーの無限後退への別の反駁は、関係が関係項に関係していなければならないという当初の前提そのものを否定する。[12]
消去主義への異論は多くの場合、現実の記述には関係が不可欠だという考えにもとづく。たとえば、関係は数学や経験科学の不可欠の一部のように見える。[2][56]
還元主義
還元主義とは、関係は最終的に非関係的な実体に還元される、あるいはそれらによって説明できるという見解である。この点で、関係は現実への実質的付加ではなく、他の現象に随伴するにすぎない。[12][2]還元主義を反実在論の一種とみなす立場もあれば、関係の弱い意味での存在は認めるが、現実の最も基本的水準の一部ではないとする立場もある。[2][12][38]
一般的な還元主義は、関係は当該の実体がもつ単項的性質によって理解できると述べる。[38][12][7]たとえば、静岡・山梨県の富士山は、鳥取県の大山に対して「より高い」という関係に立つが、これは二つの山の性質によって説明できる、つまり富士山は3775メートル、大山は1729メートルの高さである。この見方では、これらの性質以外に追加の関係的事実は不要である。[2]類似という関係も、しばしば共有される性質に基づいて分析される。[38]
すべての関係(外在的関係を含む)が単項的性質に還元できるという主張は、議論が多い。たとえば空間関係がこのやり方で分析できるかは自明ではない。[38][7]さらに、近代物理学からの異議として、そこで扱われる非関係的性質だけではすべての現象を説明するには十分でない、という主張がある。[2]
還元主義は内在的関係に適用する場合には一般的だが[38][7][2]、普遍的に受け入れられているわけではない。反還元主義の一つの論点は、内在的関係のケースでさえ、単項的性質どうしの最小限の形式的関係が必要だというものだ。たとえば、富士山が大山より高いことを説明するには、「3775メートルである」と「1729メートルである」という性質だけでは不十分で、これらの性質のあいだに「より大きい」という関係が成り立つことを仮定しなければならない、という指摘である。[2]
実在論
実在論者は、関係が現実の一部であるとする。この見解は通常、関係が心から独立して存在するという主張と結びつく。強い形では、関係は現実の最も基本的水準に属すると述べる。[12][38]ただし、弱い形の実在論もあり、関係は実在だが最も基本ではなく、非関係的特徴から生起する、という立場もある。その場合は関係は「存在への付加ではない」とされる。[12]
一部の実在論者は、関係を普遍と理解する。すなわち関係は反復可能で、さまざまな個体群に実現(例化)されうる。[16][17]異なる見解では、関係をトロープとみなす。[16]
関係主義
関係主義は、関係についての強い実在論である。広義には、現実のすべてが根本的に関係的であり、非関係的性質の存在を否定する立場である。[12][57][58]「relationism」「関係存在論」も同義に用いられることがある。[59][60]関係主義は、実体こそが現実の基本構成要素だとみなす実体主義と対照的である。[58][61]
関係主義を動機づける中核直観の一つは、いかなる対象も、それが他の対象とどう関わるかを把握することが理解の鍵だという考えである。[12]関係主義者の中には、対象はまったく存在しないとする者もいれば、依存的存在としてのみ存在するとする者もいる。[62]たとえば存在論的構造主義(英語版)は、対象は関係から成る構造だと主張する。[62][63]ランダル・ディパートは、世界は数学的グラフの構造をなす関係から成り、その中の具体的実体は部分グラフであると述べる。[64][12][60]
関係主義を、現実一般の理論としての最も強い形で理解する場合、それは論争的である。常識との衝突に加え、困難の一つは、関係は通常、結びつける対象に適用される依存的存在として理解され、関係項なしに存在しうる独立的存在ではないとされる点である。もう一つの困難は、純粋に関係的な構造は抽象的対象のように見え、それ自体では彼らが記述しようとする具体的実在を説明しきれないという点である。[12][60][38]
そこで一部の関係主義者は、主張を特定領域に限定することで、より制限的な理論を擁護する。[58]時空哲学では、関係主義は、時空とは実体主義者が言うような実体ではなく、個々の物理現象のあいだの時空的関係のネットワークだとする見解である。[45]知覚の哲学では、色についての関係主義は、色は対象の通常の単項的性質ではなく、知覚状況とそれを知覚する主体のあいだの関係だとする。[65]社会学の哲学では、関係主義は広範な社会現象を、相互行為者の関係を研究することで解明しようとするアプローチである。たとえば社会を人々の相互作用の全体とみなしたり、美術の世界を、芸術家・プロデューサー・観衆・批評家のあいだの関係で理解する、などである。[66][67]