許遷
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はじめ鄆州の牙将となり、頑固な性格であった。後漢の乾祐元年(948年)、左屯衛将軍となり、少府監の馬従斌とともに高祖(劉知遠)の山陵の法物の造作を監督し、経費の節減につとめた。左監門大将軍に転じ、検校司空を加えられた。後漢の末に権知隰州をつとめた[2]。
広順元年(951年)、後周の太祖郭威が即位すると、北漢の劉崇が子の劉鈞を派遣して平陽に進攻させた。劉鈞は隰州に立ち寄り、隰州城を攻撃した。城中の兵は少なかったが、許遷が指揮を取ると、城中の士気は高まった。漢軍は死傷する者が多く、ほどなく撤退した。許遷は正式に隰州刺史に任じられた。反乱者を憎むこと苛烈で、反乱者を磔台に釘づけにして、部下に命じてその肉体を切り分けさせた。誤断で無辜の人を死罪に処し、その家人が宮殿を訪れて訴えると、許遷は開封府の獄に下された。ときに陳観が知開封府であり、もとから許遷と気が合わなかったため、その件を弾劾した。郭威は許遷を刺史から罷免するだけにとどめた。許遷は釈放されると、陳観をひどくののしって、王峻を辟易させた。のちに病にかかって引退を願い出て、汶上県に帰って死去した[1]。