諏訪頼満 (安芸守) From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 戦国時代生誕 文明5年(1473年)[注釈 1]死没 天文8年(1540年)[注釈 2]改名 宮法師丸(幼名)、頼満、碧雲斎(法号) 凡例諏訪 頼満時代 戦国時代生誕 文明5年(1473年)[注釈 1]死没 天文8年(1540年)[注釈 2]改名 宮法師丸(幼名)、頼満、碧雲斎(法号)官位 安芸守氏族 諏訪氏父母 諏訪政満兄弟 宮若丸、頼満、盛満(小太郎)子 頼隆、満隣、満隆、今井信隣室、高遠頼継室テンプレートを表示 諏訪 頼満(すわ よりみつ)は、戦国時代の武将。信濃の戦国大名諏訪氏の当主。諏訪政満の子で、諏訪頼重の祖父。 諏訪政満の次男[1]。 文明15年(1483年)1月8日、一族の諏訪継満(諏訪大社大祝家)・金刺興春(諏訪下社金刺氏)・高遠継宗(高遠氏)の反乱(文明の内訌)によって父の政満と兄の宮若丸を殺されたため、10歳で家督を相続した[1]。成長して永正15年(1518年)に金刺興春の子・昌春を萩倉要害に攻めて[1]甲斐に追放し、高遠継宗の子・頼継を降伏させて諏訪地方一帯を統一し、さらに昌春を助ける甲斐の武田信虎とも戦う。享禄元年(1528年)には国境の神戸境川(長野県諏訪郡富士見町)において信虎勢を撃破し、積極的に領国を拡大していった。このように諏訪氏の最盛期を築き上げた頼満は、「諏訪氏中興の祖」と言われた。 享禄3年(1530年)4月18日、嫡男の頼隆が頼満に先立って31歳で急死し、天文3年には嫡孫の頼重に家督を譲って出家して碧雲斎と名乗る。享禄4年(1531年)には甲斐の国人領主らを後援した河原辺合戦(山梨県韮崎市)で敗退しており、天文4年(1535年)には信虎と和睦する[1]。信虎の娘を頼重に娶わせ、ともに小笠原長棟を攻めた。 天文8年(1539年)11月、背中に生じた腫瘍の悪化によって67歳で病死した[1]。諏訪氏が武田晴信によって滅ぼされる2年半ほど前のことであった。 上原城居城跡の石碑 脚注 注釈 ↑ 『戦国人名事典』では頼満の生年は文明12年(1480年)[1]。 ↑ 『戦国人名事典』では頼満の没年は天文8年(1539年)12月9日[1]。 出典 1 2 3 4 5 6 7 阿部 & 西村 1990, p. 440. 参考文献 阿部猛; 西村圭子 編『戦国人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年9月。ISBN 4-404-01752-9。 表話編歴諏訪氏大祝・当主 有員 - (13代略) - 有信 - 頼信 - 為信 - 為仲 - 為継 - 為次 - 為貞 - 敦貞 - 貞方 - 貞光 - 敦光 - 敦忠 - 敦信 - 信重 - 信時 - 盛信 - 盛重 - 宗経 - 頼重(照雲) - 時継 - 頼継 - 信継 - 直頼 - 信有 - 有継 - 頼満(伊予守) - 信満 - 政満 - 頼満(安芸守) - 頼隆 - 頼重 - (勝頼) - 頼豊 - 頼忠 - (藩主諏訪家)頼忠 - 頼水 - 忠恒 - 忠晴 - 忠虎 - 忠林 - 忠厚 - 忠粛 - 忠恕 - 忠誠 - 忠礼 - 忠誠(再襲) - 忠元 - 忠弘 - 忠則 - (大祝諏訪家)頼忠 - 頼広 - 頼寛 - 頼隆 - 頼基 - 頼超 - 頼央 - 頼紀 - 頼隈 - 頼本 - 頼啓 - 頼壽 - 頼武 - 頼固 - 頼宣 - 弘 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。表示編集 Related Articles