諏訪頼重 (南北朝時代)
日本の鎌倉~南北朝時代の武将
From Wikipedia, the free encyclopedia
諏訪 頼重(すわ よりしげ)は、鎌倉時代後期から建武の新政期にかけての神職・武将[注釈 4]。法名の照雲(しょううん)でも知られる。諏訪大社上社大祝で、諏訪神党の盟主。三河権守。嫡子は時継、嫡孫は頼嗣(直頼)。時継と共に得宗家(北条氏嫡流)の遺児である北条時行を擁立し、中先代の乱(1335年)を起こした。建武政権に不満を持つ武士たちを束ねて大軍を率い、東国を管領する足利直義(尊氏の弟)を破って鎌倉の一時的征服に成功した。しかしその後、征東将軍に任じられた足利尊氏に敗れて自害した。照雲が事実上の総大将である中先代の乱が、そのまま尊氏と後醍醐天皇の戦いである建武の乱に発展し、日本史上初の武家単独政権である室町幕府の成立につながったため、日本史に大きな影響を与えた人物の一人である。軍記物語『太平記』では「諏訪三河守」として登場し、史実同様に時行軍の筆頭武将として活躍する。
出自
4人の父親候補「諏訪盛重」

諏訪頼重(後の照雲)は鎌倉時代、信濃国一宮(長野県の筆頭神社)の諏訪社(後の諏訪大社)の上社の長である大祝(おおほうり、諏訪明神の依代)の家系に生まれる[4]。諏訪大社の神は、鎌倉時代には東国の軍神(いくさがみ)として広く知られていた[5]。また、一族から鎌倉中央で強大な権勢を持つ御内人(みうちびと、北条氏嫡流の得宗家に仕える直臣)を何人も輩出したため、信濃の諏訪本家も大きな力を持っていた[5]。
しかし、諏訪大社自身の歴史の古さに反し、13世紀頃から登場するこの「諏訪氏」という氏族に関する、歴史的事実としての出自やしきたりに関しては、諸説あり定まっていない。伝統説では、「上社の諏訪氏は本姓神氏、下社の諏訪氏は本姓金刺氏で別族」[6]「上社の大祝は童男が継ぐ」[7]「上社の大祝は諏訪郡から出てはいけない」[4]などと言われる。しかし、これらの伝統説は、真偽性が争われていない史料では孫の頼嗣もしくはそれ以降の代からしか確認できないため、頼重が活動した鎌倉時代にそのような区別・風習があったかどうかは様々な説がある(タケミナカタや諏訪頼嗣#諏訪信仰の中興祖も参照)。
一説に頼重の父とされる「諏訪盛重」に関しても、別人説をすべて採用した場合、鎌倉期に大祝もしくはそれに近い高位の同姓同名の人物が最大4人いたことになり、南北朝時代以前の諏訪氏の記録がいかに錯綜しているかがわかる。
1人目:諏訪大祝盛重
鎌倉時代前期の大祝の盛重は、鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』第25巻の承久3年(1221年)6月11日条に「諏訪大祝盛重」として登場する人物で、承久の乱において北条氏勝利のために祈祷を行ったという(『信濃史料』3・587)[8]。
一方、諏訪円忠『諏方大明神画詞』(1356年)や前田本『神氏系図』(室町時代)では、承久の乱の時の大祝は「敦信」という名前になっている[9]。なお、この前田本『神氏系図』では敦信→信重→信時→盛信→盛重→頼重という血脈になっている[10]。
小林計一郎は、年齢の点から、次項の諏訪蓮仏とは別人としている[7]。承久の乱(1221年)で息子の盛信が武将として活躍していることから、大祝の盛重(敦信)は35歳よりは上であろう[7]。同一人物とすれば、御内人の盛重(蓮仏)は80歳近くまで意欲的に働いていたことになり、無理が生じる[7]。ここから、『吾妻鏡』の大祝盛重は、『神氏系図』の「敦信」が正しいのではないか、とした[7]。
2人目:諏訪蓮仏盛重
鎌倉時代中期の諏訪蓮仏(盛重)は、得宗被官諏訪氏の初代である[11]。御内人の中では長崎氏・尾藤氏らと並ぶ巨大な権勢を持っていた[11]。
細川重男の説によると、得宗被官諏訪氏は宗家である大祝家の分家であるという[12][5]。
なお、『外記日記』文永四年四月廿七日条によると、蓮仏(盛重)は文永4年(1267年)の4月に死亡している(『信濃史料』補遺上・186)[13]。もし照雲(頼重)が蓮仏(盛重)の子の一人だったと仮定した場合は、遅くとも文永5年(1268年)の生まれとなる。中先代の乱を起こした時は、少なくとも数え68歳になる。
3人目:左衛門尉金刺盛重
左衛門尉の金刺盛重は、公卿・平経高の日記『平戸記』寛元3年(1245年)9月12日条に名前が見える人物で、「御祈功」(お祈りの功)によって左衛門尉に任官したという[14]。当時、「初斎宮」という、斎宮(伊勢神宮に仕える未婚の皇女)が京都出立前に行う儀式があった[14]。この儀式で功績があった者に対する臨時の除目(じもく、就任儀式)で任官したものである[14]。
小林計一郎の説によると、活躍期が同じなことから、御内人の諏訪盛重(蓮仏)と同一人物なのは間違いない、という[14]。問題点は、当時、御内人の盛重は出家済で蓮仏の法名を名乗っていたため(『吾妻鏡』)、新たに左衛門尉に補任されるというのは不可解な点である[14]。この点については、出家といっても仏僧の厳格な遁世とは違うものだから、左衛門尉ぐらいのあまり高くない地位なら許された可能性もあるのではないか、としている[14]。
一方、郷道哲男の説によると、諏訪盛重(蓮仏)とは別人の可能性が高いという[15]。『尊経閣文庫文書』所収の将軍家政所文(寛元4年(1246年)11月13日付)に、「諏訪下社領和田郷」地頭職を「金刺為頼」という人物が父の「左衛門尉法師〈法名蓮栖〉」から譲られた記録があり、官職からして金刺蓮栖は金刺盛高と同一人物の可能性がある[15]。また、諏訪盛重(蓮仏)の官職は左衛門尉ではなく、兵衛尉である[15]。法名(蓮栖と蓮仏)と官職(左衛門尉と兵衛尉)の違いから、異なる人物ではないか、という[15]。
4人目:安芸権守盛重
安芸権守の盛重(通称:次郎三郎)は、室町時代の前田本『神氏系図』で諏訪頼重の父と伝承される人物[10]。大祝[10]。一人目の諏訪盛重(同系図では敦信)の玄孫(孫の孫)とされる[10]。実在不明。
生涯
北条時行を匿う

元亨3年(1323年)10月26日の北条貞時13回忌の仏事記録で供物を贈った人物たちの一覧(『信濃史料』5・43[1])に「諏訪三河権守」という人物が見える[16]。『足利尊氏関東下向合戦次第』に「諏訪上宮祝三河権守頼重法師」とあるのを考えると、この「諏訪三河権守」は頼重であろう[16]。
『光明寺残篇』によると、元弘の乱(1331–1333年)では、嫡子の諏訪時継と思われる人物が「諏方祝」として赤坂城の戦い(守将は楠木正成)に参戦している[17](異説もある。当該項目参照)。
その後、新田義貞の鎌倉攻めによって鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇による建武の新政が開始した[4]。
軍記物語『太平記』(1370年ごろ)「西源院本」の第10巻「鎌倉中合戦の事」では、得宗家(北条氏嫡流)の遺児である時行は、諏訪氏の一員である諏訪盛高によって鎌倉から信濃国へ抜け出し、「諏訪の祝」に引き渡されて難を逃れていたと描かれている[18]。年代記『神明鏡』(14世紀末)の下巻も同様[19]。元弘3年/正慶2年(1333年)3月1日付の同時代史料に金刺氏系諏訪氏の一員である金刺盛高という人物の名が見えるため(『円覚寺臥龍庵蔵金剛般若経奥書 正慶癸酉三月初一日』)、小林計一郎によると、この人物が『太平記』の諏訪盛高のモデルなのはほぼ確実であろうという[20]。
中先代の乱まで

正確な時期は不明だが、頼重は中先代の乱までには出家し、仏門に帰依して「照雲」の法名を名乗る。#『守矢文書』を信じるなら、建武元年(1334年)2月8日以前である。
後醍醐天皇の建武政権下では、記録に残るだけでも全国各地で計26回の反乱が起こった[21]。
信濃国(長野県)でも、建武2年(1335年)1月、信濃国水内郡(長野県上水内郡とその周辺)で北条残党の蜂起が発生した[22]。当時の信濃守である白川資英は信濃の武将の市河助房らに命じ、3月8日に北条残党軍が立てこもる常岩北条城を攻略させた[22]。さらに、3月16日に国府(国司の庁舎がある都市)である信濃府中(長野県松本市あたり)で北条残党の騒乱が起こった[22]。後に中先代の乱に加わる深志介という武将も加わっていたと推測されるほどの大きな反乱だった[22]。守護の小笠原貞宗らの軍が鎮圧にあたった[22]。
これらの騒動について、吉井功兒の説によると、中先代の乱が表面化するのは7月からだが、水内郡の騒乱から続く小競り合いも、北条反乱軍(つまり諏訪照雲)の計画の一部だったのではないか、という[22]。建武政権下での信濃国は信濃守(公家方の長野県知事)と信濃守護(武家方の長野県知事)の両方が軍事権を持つ珍しい地域だった[22]。そのため、(それを逆手にとって)兵力を分散させる意図があったのではないかという[22]。
『守矢文書』所収『大祝職位事書』の「普寛 頼継兵部」によると、(中先代の乱が始まる少し前の)建武2年(1335年)2月9日に、時継は数え7歳の我が子頼継(頼嗣)に大祝の位を譲っていたという[23]。伝承によると、大祝は清浄さを保つために諏訪郡の外に出てはいけないという規則があるとされ、そのため、この世代交代は諏訪氏による挙兵準備だったと解釈される[4]。
白川資英は4月7日に信濃守を退任し、後任として姓名不明の某が新しい国司に任じられた[22]。吉井功兒らは、この姓名不明の某は以前に後醍醐によって信濃守に任じられていた信濃守清原某(諱は不明)の再任であろうとし、難しい情勢に対するために経験豊かな清原某の方が呼び戻されたのではないか、としている[24]。
中先代の乱前半戦

建武2年(1335年)7月(異説として6月説もあり)、諏訪照雲(頼重)・時継の父子は、北条時行を奉じて、滋野氏の一族(海野氏・禰津氏・望月氏ら)と共に中先代の乱を起こした[5]。
当時、公卿・西園寺公宗が持明院統(のちの北朝)の太上天皇(後伏見上皇?光厳上皇?)を奉じて後醍醐天皇暗殺計画を練ったが失敗して捕縛されていた(のち刑死)[26]。軍記物語『太平記』では、北条泰家(時行の叔父)も公宗に荷担しており、時行(事実上は照雲・時継)の挙兵も持明院統(北朝)と連動したものだったと描かれている[26]。『太平記』以外に証拠はないものの、状況との整合性が高いため、歴史的事実と考えられる場合が多い[26]。
このとき信濃勢の主力として活躍したのが、諏訪社上社を中心とする「諏訪神党」と呼ばれる一団である[5]。ただし、諏訪神党の一員である市河助房は、盟主である照雲に対抗し、建武政権軍として戦っているため、必ずしも神党の全員が一致団結していた訳ではない[5]。
建武2年(1335年)7月14日から22日まで、時行軍の保科弥三郎・四宮左衛門太郎らが、信濃守護の小笠原貞宗と繰り返し激しい戦いを行った[5]。
しかし、保科・四宮軍は貞宗を引き付けるための陽動部隊だったらしく、照雲の本軍は別行動を取っていた[5]。軍記物語『太平記』のうち「金勝院本」という写本では、「諏訪前祝部参河守頼重」が時行軍の本軍を率いて、信濃守である「国司博士左近少将入道」(信濃守清原某?)がいる国府を襲撃し、国府軍を破って信濃守某を自害させたと描かれている[2]。この描写は、他の史料との整合性が高い[5]。
その後、信濃を出た時行・照雲ら鎌倉幕府再興軍に、三浦時継・時明ら数多くの東国武士たちが加勢した[5]。時行・照雲は、建武政権の東国支配機関である上野親王庁(後世の通称は鎌倉将軍府)の主だった武将である渋川義季・岩松経家・今川範満・小山秀朝らを敗死させ、ついには鎌倉の執権である足利直義(尊氏の弟)を逃走させた[5]。
直義に勝利した時行・照雲らは、7月24日に鎌倉へ入った(『華厳経縁起鈔見聞集』奥書)[27]。おそらくこの武功により、主君の時行は「中先代」と敬称されるようになったのだと思われる[28]。
中先代の乱後半戦

しかし、弟の窮地を知った足利尊氏は、8月2日、後醍醐天皇の正式な許可を得るより先に京から東国へ急行した[29]。北条軍と建武政権軍は9日・12日・14日・17日・18日・19日と立て続けに合戦を行い、尊氏はそのすべてに勝利した[29]。なお、14日の戦いでは、主将の尾張次郎(名越流北条氏?)が自害し、副将の塩田陸奥八郎(塩田流北条氏)が足利方に捕縛されているが、このとき諏訪一門と思われる侍大将の諏訪次郎も捕虜となっている(『足利尊氏関東下向合戦次第』)[29]。
結果だけ見れば照雲の大敗、尊氏の圧勝に思えるものの、個々の戦いを見ると、尊氏軍も名のある武将の多数が討死もしくは負傷しており、いずれの合戦も激しい戦いだったことがわかる[29]。
建武2年8月19日(1335年9月6日)、「諏方の祝父子」(諏訪照雲・時継親子)ら主だった将は鎌倉で自害した(『梅松論』上)[30]。一方、主君の北条時行は脱出に成功し、この後もしばらく活動を続けることになる[29]。
上社系諏訪氏の家督と大祝の地位は、当時数え7歳だった孫の諏訪頼嗣(後に直頼)が継承した[31]。頼嗣(直頼)は室町幕府の足利直義や南朝の宗良親王らの有力武将として活躍して、小笠原氏と信濃国の主導権を争った[31]。
『守矢文書』
伝承
『太平記』
軍記物語『太平記』(1370年ごろ)の古態本の一つ「西源院本」第13巻「中先代の乱の事」では、相模次郎(北条時行)配下の筆頭武将「諏訪三河守」として名前が言及される[33]。嫡子の諏訪時継は登場しない[33]。時行軍に集まった兵数は5万騎と描かれている[33]。
同巻「相模次郎時行滅亡の事、付道誉抜駆け敵陣を破る并相模家を渡る事」にも登場[34]。足利尊氏との戦いの開始時点でも(5万騎から)2万騎に減っていたが、尊氏軍によってさらに時行軍は討たれたため、ついに300余騎までになった[34]。諏訪三河守(照雲)をはじめとする大名たち43人は、鎌倉の大御堂(勝長寿院)で自らの顔の皮を剥いで自害した[34]。そのため、人々は自害した者たちの中に時行がいたと思い込み、その死を哀れに思ったという[34]。しかし、これは主君の時行を逃がすための諏訪三河守(照雲)の策略だったと思われる。第19巻「相模次郎時行直免の事」では、実は生存していた時行が再登場する[35]。
伝照雲供養塔

明治時代初頭(19世紀半ば)、諏訪大社上社前宮の境内の近くにある畑から、鎌倉時代・室町時代の五輪塔や多宝塔が発掘された[36]。その中の一つが、地元では諏訪照雲(頼重)の供養塔と伝承されるようになった[36]。
系図類
前田本『神氏系図』
前田本『神氏系図』は、室町時代に幕府奉行人を務めた京都諏訪氏(諏訪円忠の一族)の人が記したと思われる家系図である[37]。
この家系図の「大祝 頼重」の項目によると、官職は参河権守(三河権守)である[38]。父は大祝で安芸権守の盛重(通称は次郎三郎)で、弟に重尚(官職は掃部允)・元沢頼直(通称は五郎)・原敦頼(通称は七郎)・頼盛(通称は八郎)・中島顕重(通称は余次)がいる[38]。なお、従姉妹の一人が頼重の嫡子の時継の妻になっている[38]。
また、息子としては、時継(初名は時経、大祝・安芸権守)、高重(通称は小次郎)、高継(通称は孫次郎)、貞顕(通称は四郎)、万歳がいたという[39]。
千野家本『神家系図』
千野家本『神家系図』は、諏訪氏庶流とされる千野氏の千野俊治が所蔵していたものである[40]。おおむね前田本『神氏系図』に近いが、その後の代まで書かれており、特に千野氏について詳しいのが特徴[40]。神氏系図(神家系図)と称する系図は数多いが、内容的に本系図を元に作られたものも多いようだという説もある[40]。
この系図での頼重の官職は、参河守(三河守)とされる[41]。なお、前田本『神氏系図』で頼重の孫の一人とされる信嗣は、こちらの系図では頼重の末弟の「中嶋顕重」の息子となっており、頼重の孫の頼嗣(直頼)の養子になって大祝を継いだという[41]。
『諏訪家譜』
『諏訪家譜』(18世紀)は別名を『忠林御手系図』といい、高島藩主の諏訪忠林(1703–1770年)が各種系図類を参考にして編纂したものを、諏訪子爵家が保管していたものである[42]。諏訪氏の系図類の中から清和源氏発祥説系の系譜だけを選んで採用しているのが特徴で、その点から「源姓諏訪氏系図」とも言うことができる[42]。藩祖である諏訪頼忠(1536–1609年)以降の代の記述に関しては最善の系図とも思われるものの、それ以前の代については記述が錯綜していて信頼性は高くないとされる[42]。
この系図では初名は盛高で後に頼重に改名したとされ、(史実の息子である)時継は叔父にあたり、(史実の孫である)頼継は頼重の三男という伝承になっている[43]。