滎陽太守諸葛衡(中国語版)が鄧攸(中国語版)の娘を娶ったとき、尚書謝裒(中国語版)に縁談を持ちかけられた。父の諸葛恢は「羊氏・鄧氏とは代々婚姻関係にあり、江家とは私が向こうを頼り、庾家とは向こうが私を頼っている。このうえ更に謝裒の子と婚姻を結ぶことはできない」と言って断ったが、諸葛恢の死後諸葛家(諸葛文熊)と謝家(謝石)の縁談は実現した[2]。
これを聞いた王右軍(王羲之)が謝家を訪れて諸葛文熊を見たところ、なおも諸葛恢の家風を受け継ぎ、威儀は整い、立ち居振る舞いも端正で、服装も華やかに整っていたため、王羲之は「私が娘を躾けても、精々このくらいがやっとだろう」と感嘆したという[3]。