令集解

From Wikipedia, the free encyclopedia

令集解』(りょうのしゅうげ)は養老令の注釈書[1]で、貞観10年(868年)以前に編纂された[2]。全50巻といわれるが、35巻が現存。

明法家惟宗直本による私撰の注釈書であり、『令義解』と違って法的な効力は持たない。

まず令本文を大字で掲げ、次に小字(二行割注)で義解以下の諸説を記す。概ね、義解令釈跡記穴記古記の順に記す。他に、讃記額記朱記など、多くの今はなき令私記が引かれる。特に古記は大宝令の注釈であり、大宝令の復元に貴重である。ただし、倉庫令・医疾令は欠如している。他にも、散逸した日本律、『律集解』、唐令をはじめとする様々な中国令、及び令の注釈書、あるいは中国の格(中にはトルファン出土文書と一致するものもある)や式、その他の様々な法制書・政書及び史書・経書・緯書・字書・辞書・類書・雑書、また日本の格や式、例などの施行細則等々が引用されている。

現存35巻のうち、官位令・考課令第三・公式令第五の3巻は本来の『令集解』ではなく、欠巻を補うために、後に入れられた令私記である。

伝来

本書は、応仁の大乱以後、しばらくその所在が分からなくなったが、慶長以後、德川家康が古書を寺社、搢紳家しんしんかに求めたことで、漸次世に出るに至つた。慶長19年(1614年)7月、右大臣今出川晴季が家康の意を迎えて関白豊臣秀次より伝えた『令集解』10卷を、律2卷、『令義解』7巻とともに駿府に贈つたのが、近世において本書が世に出た最初である。 正徳亨保のころ、荷田春満は本書を上梓すべきことを幕府の当路者に献言したが、ついに実行されず、明治の初年まで写本としてのみ伝えられた[3]

刊行

石川介による活字本の刊行

本書の活字本が初めて世に出たのは明治5年(1882年)正月で、この時には石川介(蕉園)[4]という人が16種の古本を以て校正にあたったと言われている[3][5][6]。しかし、この活字本には、まだ多くの欠点があつたので、宮崎道三郎は、諸本を校合して底本を作ることが急務であるとして、明治31年(1898年) 以後、三浦周行和田英松佐藤球幣原坦中田薫とともに、本書の校読を行ったが、止むを得ない事情により中止となった[7]

三浦周行の『校訂 令集解』『定本令集解釈義』の刊行

後の、明治42年(1909年)に、京都帝国大学教授となる三浦周行は、ひとり校訂を続けていたが、国書刊行会はこれを請うて、1912年に2巻本『校訂 令集解 』[8][9]、1924年に1巻本『校訂 令集解』を出版した[10]

このころ広文庫『新註 皇学叢書』全12巻の校訂・刊行を進めていた物集高見が他界し最後の第12回配本の『令集解』が未完のままにて残された。よって子息の物集高量の懇請により、三浦周行は校訂を行い校訂本を物集高量に授けた。三浦は自分で標註を執筆せず、高弟の高橋万次郎に任せるつもりであったようだが、高橋が急逝したために瀧川政次郎にお鉢が廻った[11]。こうして完成したのが『新註 皇学叢書 第2巻 校訂 令集解』である。瀧川は、これを『定本令集解釈義』として100部別刷りした[12]

『新訂増補国史大系 令集解』の刊行

田口卯吉の遺図を継いで『国史大系』を増修し『新訂増補 国史大系』の編纂にあたった黒板勝美は、令集解を収めんとして幾度か辞を低くして三浦周行に懇請したが、三浦はそれを却けて物集高量に校本を授けた[13]。このため、黒板は多くの令集解の善本を集め、門弟の坂本太郎に授けて、三浦の校本よりも善い『新訂増補国史大系 23.令集解 上』『新訂増補国史大系 24.令集解 下』を作り上げてしまった。今日、一般学者が使用する令集解は『新訂増補国史大系』本である[13]

刊行本

日本法制史にとどまらない価値

本書に引かれた中国の律令格式の類は、すでに中国では亡失したものであり、中国法制史の研究にも無くてはならない史料である。また、本書に引かれている中国の典籍は、当時の日本人が実際に見たものに相違ないから、本書はまた藤原佐世の『日本国見在書目録』と相並んで漢籍伝来の沿由を明らかにする重要なる史料といえる[3]

国史を補う記述が少なくない

瀧川政次郎は、本書には、遊部[注 1]のこと、笠麻呂木曽路を造つたこと等が見えていて、国史に記載されていない事歴を補う材料も少なくないとしている[3]

注釈・脚注・参考文献

関連項目

外部リンク

Related Articles

Wikiwand AI