豊国炭鉱
From Wikipedia, the free encyclopedia
豊国炭鉱(ほうこくたんこう)とは、福岡県田川郡糸田町にあった炭鉱である。
| 豊国炭鉱 | |
|---|---|
| 所在地 | |
| 都道府県 | |
| 国 | 日本 |
| 座標 | 北緯33度39分20秒 東経130度47分15秒 |
| 生産 | |
| 産出物 | 石炭 |
| 歴史 | |
| 開山 | 1890年 |
| 閉山 | 1962年 |
| 所有者 | |
| 企業 | 明治鉱業 |
| プロジェクト:地球科学/Portal:地球科学 | |
糸田町にはかつて大小60近くの炭鉱があったが、豊国炭鉱はその中でも最大であった[1]。
経緯
1879年(明治12年)10月3日、実業家山本貴三郎が宮床村(現糸田町)に52,986坪の借地許可を得て炭鉱を開いた。これが豊国炭鉱の前身となる[1]。
1889年(明治22年)、平岡浩太郎は磯野小左衛門と組んで政府の筑豊炭田坑区選定に共同出願し、借区に成功した。豊国炭鉱は山本の借地と合わせ73万坪に拡大した[2]。
1890年(明治23年)に本格的な操業を開始。
1893年(明治26年)、三井物産と石炭の一手販売契約を結ぶ。
1894年(明治27年)頃には、山本貴三郎と平岡浩太郎の共同経営体制となっていた[3]。
1899年(明治32年)6月、爆発事故が発生。死者・行方不明者215人[2]。
1900年(明治33年)、山本貴三郎が三井家からの多額の借金を遺したまま1899年末に急死、山本家は破産。平岡浩太郎は赤池炭鉱の権利を安川敬一郎に売却し、その資金で豊国炭鉱の山本家権利分を買い取り、山本家の負債を肩代わりする約定を三井家と結んだ[2]。
1901年(明治34年)までに、豊国炭鉱の経営は事実上、平岡浩太郎の専有となった[4]。
1906年(明治39年)、平岡浩太郎が逝去。豊国炭鉱の経営は長男の良助と次男の専治に引き継がれた[2]。
1907年(明治40年)、爆発事故が発生。死者・行方不明者365人。この事故で豊国炭鉱の経営は破綻した。安川敬一郎率いる明治鉱業が豊国炭鉱を200万円で買収し、新会社として経営を再開した[1]。
1910年(明治43年)、事故から完全復旧[2]。
1960年(昭和35年)9月に閉山[5]。
1962年(昭和37年)に事業団売却[5]。
ボタ山跡は住宅地となり、本事務所跡は長らく空き地として残っていたが取り壊され、跡地は大型スーパー「食彩館 糸田店」になっている[6][7]。
爆発事故
1899年の爆発事故
1899年(明治32年)6月15日、爆発事故が発生。坑内と坑口付近にいた215人が死亡、11人が負傷した[2]。
6月15日午前0時15分、遠雷のような爆発音が響くとともに第一坑と第二坑から砂塵が噴出し、約5分間続いた。坑内に入った消防隊は、爆発が「八尺層」で発生したことを確認したが、救出作業と坑内のガス排出に手間取り、6月29日になっても爆発現場に近づけなかった[2]。
平岡浩太郎は爆発事故が発生したとき、アメリカピッツバーグのカーネギー製鉄所を視察中であったが、事故を知ると急遽帰国し、事故処理と経営立て直しに奔走した[2]。
1907年の爆発事故
1907年(明治40年)7月20日、坑内爆発が発生。365人が死亡、64人が負傷した。当時の豊国炭鉱坑長で技術者の石渡信太郎は、「灯火が可燃性ガスに引火して爆発し、それが炭塵による粉塵爆発を誘発した」と分析した。明治期最悪の炭鉱事故となった[4][8]。
事故当日は休業日明けであり、規則に従って測量夫5人が午前0時ごろ入坑し、ガスの有無を検査した。検査報告を終え、各区を受け持つ役員7人が入坑。午前5時、坑夫達が入坑を開始した。午前5時20分、大爆音とともに坑口から黒煙が噴出。午前5時40分、救護隊が入坑し、救護活動及び遺体収容を開始。火災が残っている坑道は一時的に密閉処置が行われた。近くの炭坑からは医療関係者が、赤十字社福岡県支部からは救護班が派遣された。常設の病室では収容できなくなり、幼稚園舎にも負傷者57人を収容した[9]。
負傷者や遺族には、職級や勤務年数に応じて補償金が支払われた。被害の程度が大きく、復旧の見込みが立たないことから作業員全員を解雇することが決定され、1人につき1円50銭が支払われた[9]。
鎮魂碑
1935年(昭和10年)1月1日、2つの事故とその後発生した事故の犠牲者を慰霊するため、鎮魂碑が設置された。その後、豊国炭鉱の閉山時に貴船神社の境内に移転された[10]。
