平岡浩太郎
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幼少期から西南戦争
福岡藩士・平岡仁三郎の次男として、福岡市地行に生まれる。幼名は銕太郎。号は玄洋[2]。内田良平の叔父[1]。藩校修猷館に学ぶ[3]。1868年(明治元年)、戊辰戦争で奥羽に転戦し功をなし、その後、同志と共に藩兵隊就義隊を組織する[2]。
1875年(明治8年)、武部小四郎が高知の立志社に倣って矯志社を組織すると、箱田六輔等と共に参加。1877年(明治10年)、西南戦争に呼応して越智彦四郎、武部小四郎等が挙兵(福岡の変)したときには、これに加わるが敗れ、その後、単身で西郷軍に合流し、豊後・日向の本営において謀議に参与していた。
敗戦後、懲役1年の刑を受けて東京の刑務所に入所した[1][2]。
自由民権運動以後
1878年(明治11年)1月に出所して、そのまま麹町区紀尾井町に住んだ。板垣退助の自由民権運動に参加し、同年12月、箱田六輔、頭山満、進藤喜平太等と共に向陽社を組織。1879年(明治12年)11月の愛国社の第3回大会では幹事を務め、1880年(明治13年)3月の第4回大会においては、国会期成同盟の設立を主導した。
1881年(明治14年)、向陽社を玄洋社と改名して初代社長に就任[2]。1882年(明治15年)、朝鮮の壬午事変に際し、西郷軍の生き残りの野村忍助と義勇軍計画を起こすなど、早くからアジア問題に関心を示した[1]。
中国革命の支援にも情熱を注ぎ、1897年(明治30年)、日本に亡命した孫文に活動費、生活費を援助している[4]。1898年(明治31年)、憲政党結成に尽力し、隈板内閣樹立に努めた[1]。同年5月九州日報社主となり、1906年(明治39年)10月に没するまでその職にあった[5]。
事業活動
議員活動
1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙で福岡県第三区から出馬し衆議院議員に当選。以後、1904年(明治37年)3月の第9回総選挙まで連続6回当選を果たし、1908年まで勤めた[3]。
官営八幡製鉄所(1901年)の誘致運動などに関わり、福岡県の経済発展に貢献した。
国民同盟会にも参加し、ロシアの満洲侵略が顕著となると、1903年(明治36年)に対露同志会に参加して対露強硬論を唱えた。
在任中の1906年(明治39年)、心臓を病み10月24日死去。享年56[2]。
1913年(大正2年)3月18日、辛亥革命を成し遂げ再び来日した孫文は、福岡市の聖福寺に平岡浩太郎の墓参に訪れている[4]。