平岡浩太郎

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出生地 江戸幕府 福岡藩
没年月日 (1906-10-24) 1906年10月24日(55歳没)
出身校 藩立修猷館
平岡浩太郎
Kōtarō Hiraoka
出生地 江戸幕府 福岡藩
没年月日 (1906-10-24) 1906年10月24日(55歳没)
死没地 大日本帝国の旗 大日本帝国 東京市
出身校 藩立修猷館
前職 武士福岡藩士
所属政党 玄洋社
配偶者 宗浪
子女 内田良平[要出典]
大日本帝国の旗 衆議院議員
内閣
在任期間 1894年 - 1908年
元首 明治天皇
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平岡 浩太郎(ひらおか こうたろう、嘉永4年6月23日1851年7月21日) - 明治39年(1906年10月24日[1]) は福岡県鉱業事業者で、政治結社玄洋社の初代社長。自由民権運動家

幼少期から西南戦争

福岡藩士・平岡仁三郎の次男として、福岡市地行に生まれる。幼名は銕太郎。号は玄洋[2]内田良平の叔父[1]。藩校修猷館に学ぶ[3]1868年(明治元年)、戊辰戦争で奥羽に転戦し功をなし、その後、同志と共に藩兵隊就義隊を組織する[2]

1875年(明治8年)、武部小四郎が高知の立志社に倣って矯志社を組織すると、箱田六輔等と共に参加。1877年(明治10年)、西南戦争に呼応して越智彦四郎、武部小四郎等が挙兵(福岡の変)したときには、これに加わるが敗れ、その後、単身で西郷軍に合流し、豊後・日向の本営において謀議に参与していた。

敗戦後、懲役1年の刑を受けて東京の刑務所に入所した[1][2]

自由民権運動以後

1878年(明治11年)1月に出所して、そのまま麹町区紀尾井町に住んだ。板垣退助自由民権運動に参加し、同年12月、箱田六輔、頭山満進藤喜平太等と共に向陽社を組織。1879年(明治12年)11月の愛国社の第3回大会では幹事を務め、1880年(明治13年)3月の第4回大会においては、国会期成同盟の設立を主導した。

1881年(明治14年)、向陽社を玄洋社と改名して初代社長に就任[2]1882年(明治15年)、朝鮮壬午事変に際し、西郷軍の生き残りの野村忍助と義勇軍計画を起こすなど、早くからアジア問題に関心を示した[1]

中国革命の支援にも情熱を注ぎ、1897年(明治30年)、日本に亡命した孫文に活動費、生活費を援助している[4]1898年(明治31年)、憲政党結成に尽力し、隈板内閣樹立に努めた[1]。同年5月九州日報社主となり、1906年(明治39年)10月に没するまでその職にあった[5]

事業活動

その後、実業方面にも進出。赤池・豊国炭鉱などの経営に成功し、九州鉄道(1888年)の創設にも関わる。その豊富な資産で玄洋社の対外活動を支えた[1]

一方、 1889年(明治22年)に海軍会計局所管の嘉麻郡唐津海軍省出張所予備炭田で、借区権が元の権利者(原告勝野儀市)から詐取され頭山満矢野喜平治に譲渡されたことで起きた1892年の裁判では、平岡浩太郎が譲渡を教唆していたことが明らかになった[注釈 1]

議員活動

1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙で福岡県第三区から出馬し衆議院議員に当選。以後、1904年(明治37年)3月の第9回総選挙まで連続6回当選を果たし、1908年まで勤めた[3]

官営八幡製鉄所(1901年)の誘致運動などに関わり、福岡県の経済発展に貢献した。

国民同盟会にも参加し、ロシアの満洲侵略が顕著となると、1903年(明治36年)に対露同志会に参加して対露強硬論を唱えた。

在任中の1906年(明治39年)、心臓を病み10月24日死去。享年56[2]

1913年(大正2年)3月18日、辛亥革命を成し遂げ再び来日した孫文は、福岡市の聖福寺に平岡浩太郎の墓参に訪れている[4]

親族

  • 平岡仁三郎 - 父
    • 内田良五郎 - 兄。武道家。玄洋社社員。
    • 平岡浩太郎
    • 宗浪(そうなみ) - 浩太郎の妻。福岡県士族侍中宗信の長女。
      • 長男 平岡良助
      • 西郷栄子 - 良助の妻。西郷従道の娘。
      • 次男 平岡専次
      • 三男 平岡潤吉
      • 四男 平岡鐵太
      • 五男 平岡康次
      • 六男 平岡進
      • 七男 平岡清
      • 八男 平岡豊
      • 平岡専治 - 浩太郎の養子。玄洋社社員。
    • マサ - 妹。
    • 的野半介 - 妹マサの夫。義弟。玄洋社社員、衆議院議員[8]

関連項目

脚注

参考文献

外部リンク

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