豊国覚堂
From Wikipedia, the free encyclopedia
慶応元年(1865年)、上野国多野郡日野村猪田(現・群馬県藤岡市)曹洞宗長湯山興春寺に父田川義水、母知加の子として生まれる[3][4][5]。父が校長を務めていた下日野小学校に学んだ[3][4]。
1879年(明治12年)、勢多郡大胡町大字堀越(現・前橋市堀越町)の長善寺の豊国洞伝の養子となり、同寺で得度する[3][4][5]。龍海院に置かれた群馬県曹洞宗専門学校で学んだのち、1886年(明治19年)1月23日、長善寺住職の辞令を受ける[3][4]。寺子屋済美塾を開設し漢学を教授した[3][4][1][5]。1888年(明治21年)東京の曹洞宗説教講習所を修了して布教師となり、このとき大内青巒を知る[3][4][1][5]。
1889年(明治22年)6月、前橋で雑誌『獅子吼』を弁護士の大島染之助と発刊する[3][4][6][7]。1890年(明治23年)に大内青巒の招きで上京し、三宅雪嶺が主筆を務める『江湖新聞』の宗門担当となった[3][4][7]。また週刊『土曜報知』を発刊[3][4][7]。
1891年(明治24年)に帰郷し、大胡で『教学新報』を出版する[3][4][7]。1893年(明治26年)に佐波郡玉村町出身の木島はんと結婚[3][4]。月刊『仏教文庫』や『上州人物志』の出版事業を手がけたのち、大島染之助の推挙で1896年(明治29年)『上毛新報』の記者となった[3][4][8]。1899年(明治32年)に長善寺の住職を退職し、1901年(明治34年)末に『上毛新報』も退職した[3][4]。
1902年(明治35年)に高崎で大島染之助と『阪東日報』を創刊するが、1904年(明治37年)に休刊となる[3][4][8]。1905年(明治38年)3月『上野日々新聞』を発刊し主幹となるが、翌年退社[3][4][8]。1907年(明治40年)4月『坂東日報』(のち『坂東新聞』)を刊行し自ら社長となるが、1910年(明治43年)休刊となる[3][4]。その後塚越勝三郎・小菅寅之輔と週刊『上毛タイムス』を刊行した[3][4][8]。
1913年(大正2年)8月、上毛郷土史研究会を結成し、翌1914年(大正3年)4月に『上毛及上毛人』を創刊した[3][4]。1921年(大正10年)11月には群馬県史蹟名勝天然記念物調査委員を委嘱されることとなる[3][4]。
『上毛及上毛人』


『上毛及上毛人』(じょうもうおよびじょうもうじん)は、1914年(大正3年)4月に高崎市で刊行された、上毛郷土史研究会の機関誌。1914年に第3号を発刊後、1916年(大正5年)前橋に移り復刊し1942年(昭和17年)第297号を以て休刊に至るまで、300巻が出版された[9]。なお『日本人日本人』を刊行した三宅雪嶺は覚堂の記者時代の同僚で、同誌を意識して『上毛及上毛人』では郷土史研究のみならず新聞記事抄録や時事論説が掲載されている[10]。
上毛郷土史研究会会員
- 相川之賀 - 伊勢崎市の考古品収集家。コレクションは相川考古館の所蔵となっている。
- 原田龍雄 - 民俗学者。『勢多郡誌』編纂主任。
- 岡部福蔵(赤峯) - 歴史学者。新田郷土史研究会会長。『上野人物志』『越後の新田族』『新田の史蹟』『桐生地方史』著者。
- 蜷川新 - 法学者、外交官、同志社大学・駒澤大学教授。
- 丸山源八(瓦全) - 考古学者。足利考古会を結成。
- 岩沢正作 - 考古学者、博物学者。毛野研究会を主宰し『毛野』刊行、『山田郡誌』を執筆。
- 八木昌平 - 歴史学者。桐生文化史談会創設者。
- 柴田常恵 - 考古学者。
- 福田啓作 - 館林町立図書館館長。館林郷土史談会創設メンバー。
- 中村孝也 - 歴史学者、東京帝国大学・明治大学教授。
- 福島武雄 - 考古学者、鉱山技師。県史蹟名勝天然記念物調査委員。
- 丸山清康 - 歴史学者。『上毛文化』『上毛史学』編集、『群馬文化』主宰。
- 大図軍之丞 - 群馬県職員、前橋市助役。群馬県社寺兵事課で『上毛大観』『上毛古墳綜覧』の作成に関与。
- 千々和実 - 歴史学者。
- 今井善一郎 - 民俗学者。
- 浦野匡彦 - 官僚、二松学舎理事長。「上毛かるた」作成の際は、覚堂を選定委員に選んで助力を得ている[11]。
- 萩原進 - 歴史学者、前橋市立図書館館長、県文化財専門委員、県史編纂委員。
- 都丸十九一 - 民俗学者。
- 近藤義雄 - 歴史学者。前橋市立図書館館長、かみつけの里博物館館長。
