豊田隈雄
From Wikipedia, the free encyclopedia
人物像
日中戦争当時には台湾からの中攻による渡洋爆撃を考案、自ら搭乗してこれを指揮し、金鵄勲章を拝受している。しかしこの時の賞金1万円はついに支払われず、戦後佐藤首相より金杯を受けたのみで、請求権を放棄させられたという。戦場にあっては勇猛果敢な航空参謀、海軍武官補佐官としては、誠実かつ有能な外交官であった。
戦後は、駐独海軍武官で(財)日独協会の副会長だった小島秀雄(兵44)に誘われて、日独協会の常務理事を務め、日独友好に尽力した。また若い人を好み、海軍時代や、東京裁判での経験をフランクに語り、その穏やかな性格と、公平な人柄から協会の青壮年部のメンバーからも人望があったという。裁判対策については、資料収集の他、戦後に海軍の高級将校OB達が行った海軍反省会の場で貴重な証言を多く残した。理由は後世のために海軍が行った良い事も悪い事も残し、教訓とするためだったと言う。また、兵学校において高松宮宣仁親王と同期であったことから、晩年は宣仁親王妃喜久子の嘱託を受けて宣仁親王の日記(『高松宮日記』)の出版事業にも従事していた。
年譜
- 1901年(明治34年)12月13日- 大分県速見郡山香町(現在の杵築市)生
- 1920年(大正9年)8月26日- 海軍兵学校入校
- 1923年(大正12年)7月14日- 海軍兵学校卒業 少尉候補生・練習艦「浅間」乗組
- 1924年(大正13年)4月5日- 帰着
- 1926年(大正15年)12月1日- 任 海軍中尉
- 1927年(昭和2年)3月11日- 霞ヶ浦海軍航空隊飛行学校偵察科第5期学生
- 1928年(昭和3年)12月1日- 任 海軍大尉
- 1929年(昭和4年)12月11日- 霞ヶ浦海軍航空隊飛行教官
- 1934年(昭和9年)11月1日- 海軍大学校甲種第34期学生
- 1936年(昭和11年)11月26日- 海軍大学校甲種卒業 卒業時成績順位30名中首席
- 1940年(昭和15年)11月15日- 在ドイツ日本大使館附海軍駐在武官補佐官
- 1945年(昭和20年)12月6日- 帰国 予備役編入 その後、復員庁第二復員局に勤める
- 1947年(昭和22年) 3月31日- 第二復員局調査部長に就任
- 1995年(平成7年)2月23日- 死去 享年93
戦争裁判関係資料の収集
主要著述物
- 『戦争裁判余録』(泰生社、1986年)