貝原東軒
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福岡藩の支藩だった秋月藩の藩士、江崎広道の娘として生まれる[1]。広道は畏斎と号して宋学を篤信していた。東軒も幼いころより父の薫陶を受け、経史に通じ、墨書を能くした[2]。
寛文8年(1668年)6月25日、17歳の時に、医師であった兄(一説に叔父[3])と共に行動していた[4]39歳の貝原益軒と結婚した[5][注釈 1]。東軒は和歌に秀でたほか、筝・胡琴をよく弾き、晩年は夫・益軒らとの合奏を楽しんだ。楷書にも巧みで、益軒と合作の軸物もしばしば伝わっている[7]。例えば、東軒が「愛敬」と記し、その傍らに益軒が細書している。また、益軒の日記や雑記ノートに東軒がしばしば代筆している場合もあり、内助の功が多くあった。東軒自筆の楽譜や詞かるたも現存する[8]。
2人の仲は良かったが、終生子ができなかった。東軒は華奢な体質だったようで、結婚後も郷里から両親が駆けつけるような重病を前後4回、患っている[9]。
夫婦仲の良さを示す逸話として、益軒は妻の東軒をしばしば旅に同行させ、時に1年に及ぶ長旅になることもあった[4]。
また夫婦の軽妙なやり取りとして
ある時東軒菜園に出て萵苣を摘む。偶益軒橡端に在り之を見呼んで曰く。
「ちしやとはたれが名づけそめけん」
と東軒言下に答へて曰く
「ただ人のしるのみなればいかにして」
と応て摘む菜を終り羹汁となして食膳に供せりその詩趣津々たるは更に言はず。琴瑟相和の状以て知るべし—朝倉郡郷土人物誌