貞辰親王
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元慶8年(884年)陽成天皇の退位にあたって、清和天皇の数多くの皇子の中で、貞辰は時の権力者である摂政・藤原基経の唯一の外孫(母は藤原基経の娘である女御・藤原佳珠子)であることから、有力な皇嗣候補の一人だった。しかし、陽成上皇と皇太后・藤原高子の影響を排除するために、基経は身内と異なる成人の時康親王(光孝天皇)を擁立したため、貞辰親王は皇嗣になれなかった[1]。
基経は光孝天皇の次に貞辰親王を擁立して自らは摂政に就任することを目論んでいたとみられ、光孝天皇も基経の意図を汲んで、即位後に全ての皇子女を臣籍降下させ、皇太子も立てなかった[2][3]。仁和3年(887年)即位後わずか3年で光孝天皇は病に伏し、再び皇嗣を選定する必要が生じる。ここで、光孝天皇の第七皇子・源定省(宇多天皇)が擁立され、貞辰親王が立てられることはなかった。基経は14歳の貞辰親王を元服させた上で皇嗣に擁立することも不可能ではなかったが、陽成上皇と皇太后・高子の存在が基経を躊躇させ、やむなく定省を擁立したとも考えられる[4]。