貨泉
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歴史
王莽は前漢末から新代にかけて、4次にわたる幣制改革をおこなった[1]。第3次改革では28種の貨幣をもつ複雑な宝貨制を敷いたが、百姓が従わなかったため事実上は小泉直一と大泉五十の2貨制であった[6]。王莽は第4次改革において、小泉直一・大泉五十を廃止して貨布・貨泉を発行することを命令する[7]。基本史料となる『漢書』「食貨志」と同「王莽伝」には差異が存在しており、第4次改革の年について「食貨志」では天鳳元年(14年)、「王莽伝」では地皇元年(20年)とされている[8]。後者には、第4次改革が段階的に施行されたとする説、天鳳元年のみの改革という説、これらが2つの異なる改革であるという説が存在する[9]。
貨泉は円形方孔の銅銭で、五銖銭と同様の5銖1銭の基準貨幣であった[3]。同時に発行された貨布は戦国時代の布銭(鏟形の銭貨)を模倣したもので、貨泉を1銭として25銭の価値をもつが、実際の質量は25銖の名目貨幣である[3][注釈 1]。「食貨志」によれば、小泉直一・大泉五十を廃止した第4次改革において、大泉五十については6年間(地皇元年(20年)まで)の使用を暫定的に認めている[10]。この際、大泉五十は貨泉と等価の5銖1銭とされた[9]。第4次改革期には前代に引き続き盗鋳が多く、「王莽伝」地皇2年(21年)の記述によると違反者は官有奴隷とされて鋳銭させられていた[11]。20年頃には同じ貨泉でも本来の貨泉よりかなり重いいわゆる「餅貨泉」が出現し、この餅貨泉は秤量貨幣として使用されたと考えられている[要出典]。
新は23年に滅ぼされ、25年に後漢が立つ。後漢の初代皇帝光武帝は洛陽を首都としたが、財政は弱体化していた[12]。また光武帝の出身地は「白水郷」という場所で、「白水真人」説(「白水の地に天子が興る」という予言)[注釈 2]を信じていた光武帝が貨泉を廃止することで自らの正統性を否定することに消極的だったことからも五銖銭の発行は遅れた[13]。五銖銭が発行されたのは、後漢が政治的・財政的に安定した建武16年(40年)である[14]。この時まで、貨泉の流通と鋳造は継続していたとみられる[4]。龍興元年(25年)に即位した蜀郡の公孫述は30年ころ以前に鉄製の貨泉を発行していたという説がある[15]。五行思想に基づいて白を重要視した公孫述が「白」の字を含む貨泉を好んだことが考えられる[16]。
東アジアでの出土
貨泉は西は新疆・ロシア南部、東はシベリア・朝鮮半島・日本列島[注釈 3]、南は東南アジアにまで流入していることが出土資料から知られる[19]。朝鮮半島の多くの地域では大部分が以前の時期の貨幣とともに出土するが、半島南部の南海岸や日本列島では単独の出土が多く確認される[20][21]。これらの地域における貨泉の用途は、貨幣として使用されたという説、交易の許可証・出入証という説、航海の儀礼に用いられたという説などがある[5]。
日本列島では弥生時代後期の1-2世紀ごろ[注釈 4]と古代末から中世の11-15世紀ごろに流入の画期がある[24]。弥生時代における流入の背景には、交易の対価として貨泉が用いられたとする説[25]、王莽の積極的な外交方針によるものとする説[26]、意図的に貨泉のみを選別して日本列島にもたらしていたとする説[27]の3者がある。長崎県原の辻遺跡の事例から、貨泉が楽浪郡の人々との関係のなかで日本列島に流入したとされている[28]。貨泉が日本列島で貨幣として用いられたかどうかについて議論があり、肯定する立場には巨大集落や墓域ではなく「海村」の日常生活域から貨泉が出土することを根拠に挙げる武末純一らが[29][30]、否定する立場には意図的な貨泉の選別から貨泉を輸出品とみる古澤義久らがいる[31]。かつて遼東郡や漢四郡で出土する中国貨幣がしばしば緡銭[注釈 5]の状態で発見されるのに対し、日本列島で緡銭の可能性があるのが山口県沖ノ山[注釈 6]と岡山県高塚遺跡[注釈 7]の2例しか存在しないことが否定派の根拠に挙げられていたが[31]、2017年以降に朝鮮半島南部全羅南道の光州伏龍洞遺跡[34]と海南郡星山里遺跡において貨泉が緡銭の状態で出土したことから[35]今後日本列島を含めた出土例の増加も意識される[36]。
