貴種

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貴種(きしゅ)は、その人の現在の地位や名声とは関係なく、高貴な家柄に属していた人のこと。

日本においては皇室のような古くから続く名門や、旧華族に属していた人間などが挙げられ、その他に数代続いているような政治家一家の人間などを指すこともあるが、貴種という言葉が指し示す範囲は地域や文化によってもかなり異なってくる。

古代日本において「種」の概念には2つの流れが存在していたが共に中国大陸由来であることは共通している。1つは中国王朝が匈奴などの異民族集団を「種」と表現したことに由来し、日本の朝廷ではこれを蝦夷を指す言葉として用いられ、後に渡来人に対しても用いられた。もう1つは仏教書に現れる出自・身分を指した「種」という表現である。前者から着想を得て、特定の氏族やそれにまつわる職掌・家業を指して「種」と呼ぶことが9世紀の文人貴族の間で行われたが10世紀には一旦この用法は行われなくなり(史料の残存状況の問題も考えられるが全く見られなくなるのはそれだけの問題ではないと思われる)、1世紀近い中絶を経て11世紀後半になると後者から着想を得て氏族の貴賤を示す表現として「種」という言葉が"再発見"されるという複雑な経緯を辿ったと推測されている(韓国の日本史研究者である金玄耿は、両方とも漢籍に明るい文人貴族から貴族社会全体に広まった表現であるが、前者は「文章経国」思想から、後者は「浄土信仰」から生み出された表現でそのルーツは異なるものであるとしている)[1]

「貴種」という言葉の使用が確認できる最古の例は、天長4年6月13日(827年7月10日)付太政官符の中に引用された都腹赤の中で彼が「須らく文章生は良家の子弟から取るべし」という弘仁11年(820年)の新規定を批判して「高才は必ずしも貴種ではないし、貴種は必ずしも高才ではない」と記して撤回を求めたものである。弘仁11年の規定に記された「良家」とは三位以上もしくは公卿のことを指しているため、「貴種」もその人々を指したと考えられる[2]。昌泰2年(899年)に右大臣に任じられることになった菅原道真も辞退を申し入れた際に自らを「貴種」ではなく「儒林」の家であることを理由に挙げている。ただし、道真の父・是善は従三位に昇っているため、前述の都腹赤の牒に従えば「貴種」に相当するため、同時に左大臣となった藤原時平に対する謙遜の意味も含んでいたと考えられている。また、道真は元慶3年(879年)の太皇太后正子内親王に関する服喪について記した意見書の中では内親王に対して「貴種」という表現を使っているため、王臣家(すなわち、親王以下の諸王と三位以上)に対して広く使われていた可能性もある[3]。その後、前述の一般的な「種」の表現と共に姿を消すものの、11世紀後半になると再び登場して公卿の日記にも用いられるほどに貴族社会で一般化されていった。ただし、この時代の「貴種」は公卿の子孫でかつ将来的にも公卿を輩出可能な家の出身者に限られていたようで、藤原氏でも「受領」「諸大夫」格に没落した家系に対しては用いられておらず、こうした家が院近臣や国母を輩出したことで再び代々公卿を輩出するようになっても「貴種」とはみなされなかった。前述の金玄耿は「貴種」概念の成立を摂関政治の確立に端を発する特定の家系による要職の独占に端を発し、1070年代頃に「貴種」とそうではない家が固定化されたと推測する[4]。なお、当時は「貴種」に対応する概念として「凡種」という言葉も使われている。これは貴族社会でも身分の低いとみなされた受領や実務官僚出身者を指して使われたとものとみられ、有名な例では藤原頼長平忠盛刑部卿に任命される際に凡種であるため任命には反対であるとしつつも、官位相当で内蔵頭などを歴任しているため任命することには問題はないと述べたことが知られている(『台記 別記』巻六、仁平元年2月21日条)[5]。ただ、貴種と異なって凡種の厳密な定義が行われず、頼長もどちらにも属していない中間的な出自者が存在することを認めており(『台記 別記』巻七、仁平3年11月27日条)[6]、長く定着したものにはならなかった[7]

脚注

参考文献

関連項目

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