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藤原頼長

日本の公卿、左大臣(1120 - 1156) From Wikipedia, the free encyclopedia

藤原 頼長(ふじわら の よりなが)は、平安時代末期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣藤原忠実の三男。官位は従一位・左大臣、贈正一位、太政大臣。

時代 平安時代末期
生誕 保安元年(1120年)5月
改名 菖蒲若(幼名)→頼長
概要 凡例藤原 頼長, 時代 ...
 
藤原 頼長
藤原頼長像(『公家列影図』より)
時代 平安時代末期
生誕 保安元年(1120年)5月
死没 保元元年7月14日(1156年8月1日)
改名 菖蒲若(幼名)→頼長
別名 悪左府、宇治左大臣、宇治贈太政大臣
墓所 京都府京都市上京区今出川通烏丸東入相国寺門前町の相国寺
官位 従一位、内覧、左大臣、贈正一位、太政大臣
主君 崇徳上皇
氏族 藤原北家御堂流
父母 父:藤原忠実、母:藤原盛実の娘
兄弟 泰子、忠通、頼長、女子、御匣殿
妻 藤原幸子(徳大寺実能の娘)
源師俊の娘
源信雅の娘
子 師長、兼長、隆長、範長、養女:多子
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通称は宇治左大臣。兄で関白・忠通と対立し、父・忠実の後押しにより藤原氏長者・内覧として旧儀復興・綱紀粛正に取り組んだが、その苛烈で妥協を知らない性格により悪左府(あくさふ)の異名を取った[1]。後に鳥羽法皇の信頼を失って失脚。政敵の美福門院・忠通・信西らに追い詰められ、保元の乱で敗死した。男色始め当時の風俗を克明に記した日記『台記』でも有名。

生涯

摂関家の才子

幼名は菖蒲若(あやわか)。大治5年(1130年)、藤原敦光が持参した複数の名字の中から中御門宗忠が「御堂(道長)宇治殿(頼通)御名字なり」という理由で選び、「頼長」と命名された(『中右記』正月3日条)。元服して正五位下に叙せられ侍従・近衛少将・伊予権守に任官。同年、右近衛権中将。天承元年(1131年)に従三位。翌年参議を経ずに権中納言に昇進。長承2年(1133年)には8歳年上の徳大寺実能の娘・幸子を娶った。長承3年(1134年)、権大納言となる。また、姉の泰子(高陽院)が鳥羽上皇の皇后に冊立されると皇后宮大夫を兼ねる。保延2年(1136年)には内大臣、右近衛大将を兼ねる。保延5年(1139年)、東宮傅となり左近衛大将を兼任する。

多子・呈子の入内競争

白河上皇の院政下で逼塞していた摂関家は、鳥羽院政が開始されると頼長の異母姉・泰子が鳥羽上皇の皇后となり息を吹き返した。忠通は後継者に恵まれなかったため、天治2年(1125年)に頼長を養子に迎えた[注釈 1]。しかし康治2年(1143年)に実子・基実が生まれると、忠通は摂関の地位を自らの子孫に継承させようと望み、忠実・頼長と対立することになる[注釈 2]。久安3年(1147年)に左右両大臣の不在によって内大臣の頼長が一上となると朝廷政務を掌握し、摂政の忠通を圧倒している。久安5年(1149年)、左大臣に進んだ。

久安6年(1150年)正月4日、近衛天皇は元服の式を挙げ、同月10日に頼長の養女・多子が入内、19日に女御となる。しかし2月になると忠通は藤原伊通の娘・呈子を養女に迎え、鳥羽法皇に「摂関以外の者の娘は立后できない」と奏上する(『台記』2月12日条)。呈子は美福門院の養女であり、忠通は美福門院との連携で摂関の地位の自系統保持を図ったと考えられる[注釈 3]。鳥羽法皇はこの問題への深入りを避け、多子を皇后、呈子を中宮とすることで事を収めようとしたが、忠実・頼長と忠通の対立はもはや修復不可能となった。

藤原氏長者へ

9月26日、立腹した忠実は摂関家の正邸東三条殿や宝物の朱器台盤を接収し、氏長者の地位を剥奪して頼長に与え、忠通を義絶した。さらに翌仁平元年(1151年)正月3日、忠実は忠通に譲渡していた藤原師実・藤原師通の日記正本を没収し、これも頼長に与えた(『台記』久安7年正月3日条)。更に忠実の宇治殿領の内、忠通に譲渡していた京極殿領も奪還没収した上で、これも頼長に与えられた。ただし預所の補任などは引き続き忠実が行うなど、京極殿領の事実上の支配権は忠実の手中にあった。また忠通の同母姉・泰子(高陽院)までもが異母弟・頼長の後ろ盾となり、所有する摂関家の拠点の一つ土御門殿を頼長に譲った。この状態でしかし鳥羽法皇は先の入内問題と同じように曖昧な態度に終始し、忠通を関白に留めたまま頼長に内覧の宣旨を下す。ここに兄弟で関白と内覧が並立するという異常事態となった。ただしこの内覧宣下については、近衛天皇の疎遠に悩まされた鳥羽法皇は、その原因として天皇を補佐する忠通が原因であると疑って、頼長を立てることで忠通を牽制させる動機があった、とする説も出されている[注釈 4][8]。

忠通の子・慈円の著作『愚管抄』の記すところによると、かつて忠通に息子として育てられた恩を忘れられない頼長は、宮中で忠通に出会った際に丁重に会釈する等礼を尽くすことで関係改善の糸口を探ったが、父と兄の頑なな態度の前に(周囲の同情は集めたものの)失敗に終わっている。

執政と孤立

執政の座についた頼長は意欲に燃え、学術の再興[注釈 5]、弛緩した政治の刷新を目指した。その信条は聖徳太子の十七条憲法により天下を撥乱反正[注釈 6]することにあった(『台記』康治2年10月22日条)。勢力を強めていた奥州藤原氏の藤原基衡にも、自身の荘園の年貢増徴を要求して、仁平3年(1153年)に妥結した。しかし律令や儒教の論理を重視して、実際の慣例を無視する頼長の政治は周囲の理解を得られず、院近臣である中・下級貴族の反発を招き孤立していった。また、近衛天皇も頼長をあからさまに嫌うようになった[注釈 7]。

その後、頼長は周囲と衝突を繰り返す問題児の態をなす。即ち、仁平元年(1151年)9月、家人に命じて鳥羽法皇の寵臣・藤原家成の邸宅を破壊するという事件、仁平2年(1152年)仁和寺境内に検非違使を送り込み僧侶と騒擾、仁平3年(1153年)5月、石清水八幡宮に逃げ込んだ罪人を強引に追捕しようとしての流血事件、同年6月に上賀茂神社境内で興福寺の僧を捕縄する騒ぎ、などである。これら一連の出来事は、頼長自身の綱紀粛正の意味もあったが、かえって、寺社勢力とも対立を深め、仁平4年(1154年)4月、延暦寺の僧たちによる満山呪詛を生じせしめた[14]。こうして、頼長は対立勢力を勢いづけ、ひいては徐々に法皇からの信頼を失っていくことになる。

久寿2年(1155年)7月23日、近衛天皇が崩御した。後継天皇を決める王者議定に参加したのは久我雅定と三条公教で、いずれも美福門院と関係の深い公卿だった。候補としては重仁親王が最有力だったが、美福門院のもう一人の養子・守仁王(後の二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして、その父の雅仁親王が立太子しないまま29歳で即位することになった(後白河天皇)。守仁王はまだ年少であり、存命する父の雅仁親王を飛び越えての即位は如何なものかとの声が上がったためだった。突然の雅仁親王擁立の背景には、雅仁親王の乳母の夫である信西の策動があったと推測される。この重要な時期に頼長は妻の服喪のため朝廷に出仕していなかったが、すでに世間には近衛天皇の死は忠実・頼長が呪詛したためという噂が流されており、内覧を停止されて事実上の失脚状態となっていた。口寄せによって現れた近衛天皇の霊は「何者かが自分を呪うために愛宕山の天公像の目に釘を打った。このため、自分は眼病を患い、ついに亡くなるに及んだ」と述べ、調べてみると確かに釘が打ちつけられていた。住僧に尋ねてみると「5〜6年前の夜中に誰かが打ち付けた」と答えたという。頼長はそもそもそんな像があるとは知らなかったからできるはずがないと記述している(『台記』久寿2年8月27日条)。歴史研究者は事件は忠通や信西による謀略であると見ている[15]。忠実は頼長を謹慎させ連絡役である高陽院を通じて法皇の信頼を取り戻そうとしたが、12月に高陽院が薨去したことでその望みを絶たれた。

保元の乱

保元元年(1156年)7月2日、鳥羽法皇が崩御すると事態は急変する。7月5日、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という風聞に対応するため、京中の武士の動きを停止する措置が取られ(『兵範記』7月5日条)、法皇の初七日の7月8日には、忠実・頼長が荘園から軍兵を集めることを停止する後白河天皇の御教書(綸旨)が諸国に下されると同時に、蔵人・高階俊成と源義朝の随兵が東三条殿に乱入して邸宅を没官するに至った。没官は謀反人に対する財産没収の刑であり、頼長に謀反の罪がかけられたことを意味する。氏長者が謀反人とされるのは前代未聞で、摂関家の家司・平信範はその日記『兵範記』に「子細筆端に尽くし難し」と慨嘆の念を記している(『兵範記』7月8日条)。この前後に忠実・頼長が何らかの行動を起こした様子はなく、武士の動員に成功して圧倒的優位に立った後白河・守仁陣営があからさまに挑発を開始したと考えられる。忠実・頼長は追い詰められ、もはや兵を挙げて局面を打開する以外に道はなくなった。

謀反人の烙印を押された頼長は挙兵の正当性を得るため、崇徳上皇を担ぐことを決意する。上皇方の拠点となった白河北殿には貴族では上皇の側近・藤原教長や頼長の母方の縁者である藤原盛憲・経憲の兄弟、武士では平家弘・源為義・平忠正などが集結するが、その戦力は摂関家の私兵集団に限定され、甚だ弱小で劣勢は明白だった。軍議で源為朝は高松殿への夜襲を献策したが、頼長はこれを斥けて、信実率いる興福寺の悪僧集団など大和からの援軍を待つことに決した。

天皇方は「これ日来の風聞、すでに露顕する所なり」(『兵範記』7月10日条)として武士を動員し、11日未明白河北殿へ夜襲をかける。白河北殿は炎上し、戦いは数に勝る天皇方の勝利に終わった。上皇方が総崩れとなる中、頼長は家司の藤原成隆に抱えられ騎馬で御所から脱出するが、源重貞の放った矢が頸部に刺さり重傷を負った。出血による衰弱に苦しみながら、12日嵐山方面、13日には舟で大井川(現桂川)を渡り巨椋池を経て木津へと逃亡を続け、最後の望みとして奈良に逃れていた忠実に対面を望むが拒まれ、14日に、失意の内に頸部の傷が原因で、絶命した(『保元物語』によれば頼長は舌を噛み切り自害したという)。享年37[注釈 8][注釈 9]。遺骸は奈良の般若野に埋葬されたが、信西の命によって暴かれ、検視されるという恥辱を受ける羽目になった[16]。なお、頼長の所有名義となっていた京極殿領は忠実によって再び忠通の所有として朝廷による没官は免れたが、頼長個人の所領は没官されて後白河天皇の後院領にあてがわれ、後の大荘園群である長講堂領の基軸となった。

頼長の死後、長男の師長・次男の兼長・三男の隆長・四男の範長はみな配流となり、師長を除く3名はそれぞれの配所にて死去した[注釈 10]。唯一生き残って都に戻ることができた師長は、後に太政大臣にまで昇進するものの、今度は平清盛によって再び配流される波乱の生涯を送っている。

保元の乱が終結してしばらくの間は、頼長は罪人として扱われた。頼長を罪人とする朝廷の認識は、頼長の子の師長が帰京を許され後白河院の側近になっても変わることはなかった。しかし21年を経た安元3年(1177年)、延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀といった大事件が都で連発するに及んで、朝廷は保元の乱の怨霊による祟りと恐怖するようになる。同年8月3日、怨霊鎮魂のため、崇徳上皇の当初の追号「讃岐院」を「崇徳院」に改め、頼長には正一位・太政大臣が追贈された(『百錬抄』)。

人物

少年の頃は忠実の命に従わず馬にまたがって山野を駆け巡ったが、落馬して一命を失いかねないほどの目に遭い、心を入れ替えて学問に励むようになったという(『台記』康治元年12月30日条)。以降、膨大な和漢の書を読み、誰もが認める博識となった[注釈 11]。甥にあたる慈円は『愚管抄』で「日本一の大学生[注釈 12](だいがくしょう)、和漢の才(ざえ)に富む」とその学識の高さを賞賛している。康治元年(1142年)11月の大嘗祭のとき、御禊の調査を徹夜で行い、終了後は10日間かけて膨大な式典の記録を書き残しており、事務的な能力にも優れていた。また、仏僧の蔵俊に因明を学び、『左府抄』という因明書も残している[19]。儒学も好んだが、意外にも文学を不得手としており、「和歌の道に堪えず」と公言して漢詩も得意ではなかったという。

故実の判断に際して古記録を照合する姿勢もみられる。久安3年(1147年)8月4日の北野祭では、八幡・祇園・北野の斎に仏事を忌むという従来の認識を再検討した。『御堂関白記』を調べると、長和2年(1013年)8月14日に藤原道長が法性寺で五壇法を修し、翌15日に石清水へ神馬を奉納した先例が見いだされた[20]。これを根拠として、八幡・祇園・北野のような神々を「精進神」と呼び、その斎戒では仏事を忌まないと判断している[21]。同日の『台記』には、薤を食べていたため河原から北野へ奉幣し、奉幣後に魚を食べたことも記されている[21]。

頼長の苛烈で他人に厳しい性格は、「腹黒く、よろずにきわどき人」とも評され、「悪左府」の異名で有名だが、この「悪」も現代でいう「悪い」という意味ではなく、むしろ性質・能力・行動などが型破りであることを畏怖した表現である[注釈 13]。ただし私的報復の記録も多く、太政官の官人を殺害した犯人が恩赦で釈放されたことに怒り、秦公春に命じてこれを暗殺させ「代天誅之」と自らの日記に明記することもあるほどだった(『台記』久安元年12月17日条)。

その『台記』に、少年の頃の飼い猫が病気になった際、千手像を描いて祈念して治してやったり、その猫が十歳まで長生きして死んだので、衣に包み櫃に入れて葬ってやった旨の記述がある。

男色関係

頼長は両性愛者だったと考えられる[22]。『台記』には、康治元年(1142年)以降、男性との関係を「会交」「濫吹」「遂本意」「引入臥内」などと記した記事がみえる。相手は公卿や受領のほか、随身・雑色・舞人・武士にも及び、関係が生じるまでの経緯や仲介者、相手との往来、頼長自身の感情も記されている[23]。

三品羽林

「三品羽林」は藤原忠雅に比定されている[24][25]。康治元年(1142年)7月5日条には「今夜於内辺、会交或三品件三品兼衛府、年来本意遂了」とある。当時、この条件に該当する人物は、同年正月に従三位に叙され、近衛中将を兼ねていた忠雅であった。頼長は人目を避けて花山院を訪れ、忠雅を自邸に迎えるなど、その後も関係を重ねた。同年11月23日には、(崇徳院の御所で「彼三位衛府」と記された忠雅と会った後、さらに別の「四品羽林」と会交している[24][25]。

天養元年(1144年)11月23日条には「深更向或所三、彼人始犯余、不敵々々」とあり、翌12月6日条には「或人来、相互行濫吹」と記されている[26][27]。忠雅は頼長と「受領讃」と記された人物との間を取り持ち、花山院を両者の会合の場とした[28][29]。

天養2年(1145年)正月6日条の「夜闌或卿三来、有濫吹」が、忠雅との肉体的な交渉を明記した最後の記事とされる。同年4月、忠雅が発熱すると頼長はその邸を訪れたが、再び訪れた際には病状が重いことを理由に面会できなかった。これ以後、朝廷の公事に関して「忠雅」「花山相公」の名はみえるものの、「或卿」「或人三」など従来の私的な呼称はみられなくなる。その後も頼長は忠雅を自邸の毛詩講に招き、家成死後の忠雅の態度を賞賛しており、一般的な交流と好意は続いていた[27]。久安3年(1147年)12月26日条の「今夜宰来」も、忠雅との関係を示す最後の記事とみられている[26]。

受領讃

頼長は「受領讃」と記した人物に強い執着を示した。康治2年(1143年)頃から書状を送っていたが、相手は長く頼長の求めに応じなかった。天養元年(1144年)4月3日、頼長は忠雅と同車して「讃」の邸を訪れ、初めて対面したものの、その後も関係を拒まれていた。久安2年(1146年)3月には、陰陽師の賀茂泰親から会合成就の祈祷符を得た。同年5月3日条には「子刻会合或人讃於華山有此事、遂本意了、依泰親符術也」とあり、頼長は泰親に宝剣を与えて褒賞した。その後は忠雅を介さず、相互に往来するようになった[28]。

同年8月に「讃」の妻が難産により危篤となると、頼長は日の吉凶も問わず深夜にその邸へ赴いた。妻の死後初めて会った10月7日条には「人不知、無彼事、凶事後今日始逢」とあり、この日は関係を控えたが、その2日後には再び「讃」の邸を訪れている。また、「讃」の依頼を受け、別の人物との交渉を仲介した記事もある[30]。

「受領讃」は、久安3年(1147年)に頼長へ送った詩歌の署名「大僕卿孝標」などから、藤原隆季に比定されている。「大僕卿」が馬寮の長官を意味し、「孝標」が「たかすえ」と読めること、当時隆季が左馬頭を務めていたことがその根拠となる。隆季は頼長との関係が始まった時期に讃岐守であり、頼長はその後も任国にちなんで「讃」と記したとされる。隆季は藤原家成の子で、両者を仲介した忠雅は家成の女婿であった[31]。

久安3年(1147年)3月には、隆季が詩歌を通じて近衛府の官職に就きたいとの希望を頼長に伝え、頼長も年内の実現に努めると答えている。頼長が隆季の依頼を受けて別の人物との交渉を仲介した記事もあり、両者の間では私的な往来と官職をめぐる働きかけが並行していた[32][31]。

四品羽林

康治元年(1142年)11月23日条の「四品羽林」は、かつて源成雅に比定された。しかし、久安6年(1150年)8月15日条が成雅との関係を「是夜、初通成雅朝臣」と明記していることから、「四品羽林」は成雅とは別人とみられている[24][25]。

久安3年(1147年)正月16日条には「夜半、為来有」とあり、続いて「彼朝臣漏精、足動感情、先々常有如此之事、於此道、不恥于往古之人也」と記されている。「為」を「尋」の誤写とみて、来訪者を「受領讃」とする解釈がある。これに対し、受領讃の来訪はほかの記事で「会讃有」と記されていることから、「為」を人物名の頭字とし、同月30日条の「尋来有」を「為来有」の誤写とする解釈も示されている[33][34]。

この「為」は、当時四位の近衛府官人であったこと、新院に近侍していたこと、名前の頭字が一致することから、藤原為通に比定されている。為通の一族は摂関家と姻戚関係にあり、為通自身も崇徳院に近く仕えた人物であった[35]。

成雅朝臣・権中納言・宗明朝臣・讃丸

康治2年(1143年)正月12日、成雅は殿上で山城前司の藤原頼輔と乱闘し、頼長は成雅を「所犯不軽」として解官した。この後、忠実は頼長に不興を示し、約半年にわたり宇治への参向を許さなかった。『今鏡』は成雅を忠実が「寵し給ふ人」と記しており、五味文彦は、成雅への厳しい処置が忠実の不興を招いたとみている[36]。

久安6年(1150年)8月15日条には「是夜、初通成雅朝臣」とあり、頼長と源成雅との関係が記されている。久寿2年(1155年)6月24日条には「成雅朝臣有奇怪事」、同年7月7日条には「成雅朝臣復有奇怪事」とあり、頼長が政治的に孤立を深めた時期まで関係が続いていた[37]。

天養2年(1145年)11月1日条には「入夜、与権中納言同車、向鳥羽宿所、有濫吹」とある。この「権中納言」は、当時の権中納言のうち、兼官を持たず単に「権中納言」と記され得る人物を検討した結果、徳大寺公能に比定されている。もう一人の候補であった藤原季成は任官直後で、「新中納言」と呼ばれていた[38][39]。

久安2年(1146年)2月1日条には、頼長が隆季と会った後、「宗明朝臣」と会い、「雑談及無礼、不具記」と記した記事がある。「宗明」に該当する人物が確認できず、『台記』の刊本に「家」を「宗」と誤写した例があることから、「宗明」は「家明」の誤写とみられている。別の記事にみえる「或人家」と「或所、美」も、それぞれ家明の「家」と、当時の任国であった美濃の「美」を記したものと解釈され、「宗明朝臣」は藤原家明に比定されている[40]。

仁平2年(1152年)8月24日条には「亥時許、讃丸来、気味甚切、遂倶漏精、希有事也、此人常有此事、感歎尤深」とある。「讃丸」は受領讃と同一人物とする解釈もあったが、「讃丸」という表記や官歴から、隆季の弟で、隆季に続いて讃岐守となった藤原成親に比定されている[41]。

秦公春・秦兼任・公方・義賢ら

秦公春は頼長家の雑色長を務めた随身であり、荘園の管理や実力行使を担う腹心でもあった。頼長の召使・国貞が殺害された際には、その仇を殺害するよう頼長から命じられ、のちには源義賢に代わって蘭荘の管理を任された。頼長は飲水の病を患った公春の平癒と延命を願い、祈祷や写経を行い、久安3年(1147年)には「八三」という隠語で公春を記しながら、百日を超える精進を続けた[42]。

頼長と公春との間には男色関係もあり、久安3年(1147年)の精進中には「女・男を犯さず」と記している。仁平2年(1152年)8月25日条には「今夜、召入公春於臥内、去久安四年有彼事、其後絶無其事、今夜、余強請之企、喜悦無極」とあり、久安4年(1148年)以来途絶えていた関係を頼長が強く求めたことが記されている[43][44]。

仁平元年(1151年)の家成邸追捕事件では、公春が頼長の命を受けて家成邸に乱入した。『愚管抄』も、公春を頼長が「無二ニアイシ寵シケル」随身と記している[36]。公春は仁平3年(1153年)正月19日に死去し、『台記』には、頼長がその死を嘆いて数十丁にわたる文章を記したものの、後世の抄録者が省略したことが記されている。頼長はその後も公春の妻を訪れ、墓所で夜を過ごすなど、公春の遺族と墓所への訪問を続けた[45]。また、公春の子を元服させて子の兼長の随身とし、滝口の武士に推挙するなど、その保護は次代にも及んだ[46]。

久安3年(1147年)7月28日・29日には、随身の秦兼任を二夜続けて内寝に入れたことが記されている[43]。同年9月に四天王寺へ参詣した際には、鳥羽法皇から容貌の優れた舞人がいることを告げられ、舞人の公方を臥内に迎えた。翌日にも公方と会い、翌年の四天王寺参詣でも関係を望んだが、翌日の入堂を控え、「男犯」を不浄として取りやめている[47]。

久安4年(1148年)正月5日条には、武士の源義賢について「今夜、入義賢於臥内、及無礼有景味」とある。義賢はこれ以前に頼長から能登荘の管理を任され、所領支配を通じて頼長家と結びついていた。同年8月17日条には、雑色の弥里について「及深更、引入雑色弥里於臥内」と記されている[48]。

同年10月、頼長は鳥羽法皇の推挙を受け、佐伯貞俊を養女藤原多子の年預・知家事に任じた。初参した貞俊を松明で照らして見た頼長は、その容貌を「容貌甚麗、潘岳之輩也」と記し、11月1日と4日には貞俊を臥内に入れている。貞俊はその後、多子の入内に奉仕し、多子が皇后に立てられると皇后宮少属となり、頼長家の儀式にも出仕した。貞俊との私的な関係は、多子の家政を担う実務上の任用と並行していた[49]。

家成一門

頼長と関係をもった、またはその相手に比定される人物のうち、忠雅は家成の女婿、隆季・家明・成親は家成の子であり、4人が鳥羽院の有力な院近臣であった家成一門に属していた[50]。頼長は家成を「諸大夫」と呼んでその奢侈を批判し、家成一門の藤原得子も「諸大夫女」と呼ぶなど、その出自と勢力拡大に反感を示していた。その一方で、家成の女婿や子息との関係を相次いで結んでいた[51]。

五味文彦は、執政の地位を望む頼長が、その政治的立場を父の藤原忠実の庇護に大きく依存していたため、鳥羽院の有力近臣である家成一門との結びつきを求め、男色関係を利用し得る政治的手段の一つとしたと解釈している。また、家成邸追捕事件の背景にも、頼長と家成一門との複雑な関係が作用したとみている[52][53]。

隆季は近衛府への任官で弟の家明に先行されており、家成の地位を継承するためには、自らの政治的地位を確保する必要があったとされる。隆季が頼長に近衛府への任官を求めたことから、家成一門の側にも、頼長との関係を官職の獲得や一門内での地位の確立に結びつける期待があったとみられている[54]。

頼長の男色関係には、一時的な交歓にとどまるものと、地位や利権の獲得、主従関係の強化と重なるものがあった。隆季による任官の要望、義賢への荘園管理の委任、貞俊の家政への登用、公春とその子への保護は、私的な関係が官職の斡旋、家政への登用、所領支配や主従関係と重なった例とされる[46][55]。

戒両男

久安2年(1146年)9月17日、頼長が公卿に列した二人の息子、兼長と師長に対して授けた訓戒である。

兼長・師長、倶列八座、今日以後、可論公家上日之多少、謂外記月奏所載、愚之子息等、不論年齡之長幼、不拠好悪之浅深、任官之時、可推挙上日多者、至于不許者非忘家、患力所及、無奉公之忠、不預其挙之時、曽勿怨我、不求衣服之美、不顧童僕之少、存忠勤不可慙人嘲、抑亦尽奉公之忠、唯憶遺名於後代、不敢求君之恩報、尽忠求恩者古賢所誡也、努力々々、我終没後、魂若有霊、将在陣結政辺、恋慕之時、縦無公事、朝服詣斯処、凡有至孝之志者、能勤王事以報我恩、至于訪後世者、非所望者也、両息謹守此誡、勿敢違背矣、[注釈 14]

— 『台記』巻十、久安2年9月17日条

官歴

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藤原頼長の官歴表
和暦(西暦) 月日(旧暦) 年齢[注釈 15] 事項
大治5年(1130年) 正月3日 11歳 童殿上
4月19日 元服、正五位下、内昇殿、両院昇殿、禁色勅許
6月23日 侍従
8月23日 右近衛権少将
10月5日 右近衛権中将
大治6年/天承元年(1131年) 正月2日 12歳 従四位下
正月22日 兼伊予権守
8月17日 正四位下
12月24日 従三位、右近衛権中将如元
長承元年(1132年) 10月7日 13歳 正三位
12月25日 権中納言、右近衛権中将如元
長承2年(1133年) 正月2日 14歳 従二位
長承3年(1134年) 正月5日 15歳 正二位
2月22日 権大納言
3月19日 兼皇后宮大夫(皇后・藤原泰子)
長承4年(1135年) 2月8日 16歳 兼右近衛大将
保延2年(1136年) 12月9日 17歳 内大臣
12月13日 右近衛大将如元
保延5年(1139年) 8月17日 20歳 兼東宮傅(皇太子・体仁親王)
12月16日 兼左近衛大将
保延6年(1140年) 2月22日 21歳 辞左近衛大将
永治元年(1141年) 12月7日 22歳 辞東宮傅
久安3年(1147年) 3月29日 28歳 兼橘氏是定
久安4年(1148年) 12月14日 29歳 服解(養母・藤原伯子薨去)
12月28日 復任
久安5年(1149年) 7月28日 30歳 左大臣、従一位
久安6年(1150年) 9月26日 31歳 兼藤氏長者
久安7年(1151年) 正月16日 32歳 内覧宣下
正月24日 賜随身兵仗
仁平3年(1153年) 4月11日 34歳 辞随身兵仗上表
久寿元年(1154年) 12月25日 35歳 賜随身兵仗如元
久寿2年(1155年) 4月27日 36歳 辞左大臣・内覧・兵仗上表
5月2日 辞随身兵仗上表
5月10日 辞左大臣上表
7月24日 停止内覧
久寿3年/保元元年(1156年) 2月2日 37歳 左大臣留任宣旨
7月10日 自宇治参新院御所(白河北殿)
7月11日 合戦流矢中頸
7月14日 薨去(享年37)
安元3年(1177年) 8月3日 没後 贈正一位・太政大臣
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系譜

  • 妾:八重垣 - 民部大夫為宗の娘
    • 女子:

脚注

参考文献

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