賀陽小玉女
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経歴
称徳朝の天平神護元年(765年)正月、藤原仲麻呂の乱後の論功行賞で桑原島主らとともに従七位下から外従五位下に叙せられ、さらに和気広虫・桑原島主・草鹿酒人水女らとともに勲六等を授けられている。この日、白馬の節会の宴が開かれ、五位以上のものはこれに参加し、禄を与えられている[3]。同年6月、一族の者11人とともに朝臣姓を与えられている[1]。
その後、光仁天皇の宝亀元年(770年)10月、桑原島主・武蔵家刀自・和気広虫らとともに内位の従五位下に昇叙する[4]。
なお、天平宝字8年(764年)7月27日付の東大寺施薬院解によると、施薬院より「桂心」「小壱伯伍拾(百五十)斤」の分譲を請うたのに対し[5]、造東大寺司は「賀陽采女」の宣により、直ちにこれを施薬院合薬料に取り出して使用した旨の記載があり[6][7]、この蚊屋(賀陽)采女は、直後に勃発した上述の仲麻呂の乱に功績を立てた小玉女のことではないか、とされている。