施薬院
奈良時代に設置された庶民救済施設・薬園
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施薬院(せやくいん、やくいん)は、奈良時代から中世にかけて存在した、病者・貧窮者などに対する施薬・施療に関係する朝廷の施設・機関である。
沿革
四天王寺の四箇院伝承
四天王寺には、聖徳太子が「四箇院の制」を設けたとする伝承がある。四箇院は敬田院・施薬院・療病院・悲田院からなるとされ、四天王寺では施薬院を病人に薬を施す施設、療病院を病人を治療する施設として説明している。[1]
ただし、これは四天王寺に伝わる「四箇院の制」の伝承であり、奈良時代の朝廷の施薬院と同一の制度として扱うことには注意を要する。四天王寺側も現在の説明では『四天王寺縁起』に基づくものとしている。[1]
奈良時代
史料上確認できる施薬院の成立として重要なのが、天平2年(730年)の皇后宮職施薬院である。
『続日本紀』天平2年(730年)4月17日条には、「始めて皇后宮職に施薬院を置く」と記されている。[2]
この施薬院は、光明皇后の活動と結び付けて説明されることが多い。施薬院は病者への施薬・施療などを行う施設として発展し、後には朝廷の機関として制度化された。『日本国語大辞典』も、730年の皇后宮職施薬院の設置を施薬院の初出史料としている。[3]
なお、養老7年(723年)には、興福寺に施薬院・悲田院が設けられたことが『扶桑略記』に記録されている。[4]
したがって、723年の興福寺の施設と、730年に皇后宮職に設置された施薬院は区別して記述する必要がある。
平安時代
平安京への遷都後も施薬院は存続した。
施薬院には薬園が付属し、山城国乙訓郡に施薬院用の薬園が置かれたことが『日本後紀』に記録されている。[5]
天長2年(825年)には、施薬院の職制が整備され、別当・院使・判官・主典・医師などが置かれたとされる。[6]
この時期の施薬院は、単なる薬草栽培施設ではなく、医療・施薬に関係する職員を置いた組織として運営されていた。
救済活動
平安時代の史料には、施薬院が悲田院とともに病者・孤児などの救済に関わっていたことが記録されている。
寛平8年(896年)閏1月17日の太政官符では、施薬院と東西悲田院について病人・孤児の状況を巡検することが定められている。[7]
また、延長8年(930年)には、疫病によって路頭に迷った病人を施薬院・悲田院などに収容し、米・塩などを支給する措置がとられたことが記録されている。[8]
このように、平安時代の施薬院は、薬物の供給だけではなく、病者の治療・救済を担う施設として機能していた。
藤原氏との関係
平安時代には、施薬院は藤原氏とも深い関係を持つようになった。
『続日本後紀』承和3年(836年)5月26日条には、藤原冬嗣が施薬院などに食封を寄進したことが記録されている。[9]
このような寄進は、施薬院が公的な救済機関である一方、特定の有力氏族による経済的支援とも結び付いていたことを示している。
中世
中世になると、施薬院は次第に実務的な救済・医療機関としての性格を弱め、施薬院使などの官職が残存するようになった。
院使には医療・医学に関係する家系が関与し、後には丹波氏などがその職を世襲するようになったとされる。[10]
ただし、「中世には完全に機能を失った」と単純に断定するのではなく、施薬院そのものの活動と、施薬院使という官職の存続を区別する必要がある。
近世
戦国時代には、医師の施薬院全宗が豊臣秀吉に仕え、施薬院使に任じられた。
全宗は、衰退していた施薬院の復興に関与したとされ、その後、施薬院の名称を姓とした。江戸時代には施薬院氏が施薬院使を世襲したとされる。[3]
制度と機能
施薬院の機能は時代によって変化したが、史料からは主に以下の活動が確認される。
- 病者への施薬
- 病者への施療
- 貧窮者の救済
- 孤児などの救護
- 薬物・薬草の供給
- 薬園の管理
- 医師などによる医療活動
施薬院は、悲田院と関係を持ちながら救済活動を行ったが、両者は同一の施設ではない。
施薬院と悲田院
施薬院と悲田院は、平安時代の史料でしばしば併記されている。
施薬院は主として施薬・施療に関係し、悲田院は病者・孤児・貧窮者などの救護に関係した。寛平8年(896年)の太政官符では、両者について病人・孤児の巡検が定められている。[7]
したがって、両者は密接に連携した救済機関であったが、機能上は区別されていたと考えられる。