賈餗
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賈寧の子として生まれた。賈渭の孫にあたる。幼くして父を失い、従父の賈全を頼って、江淮地方を遊歴した。進士に及第し、さらに制策甲科に登第した。渭南県尉に任じられ、集賢院校理をつとめた。官を歴任して考功員外郎となった。長慶元年(821年)、白居易とともに考策官をつとめた。ほどなく本官のまま知制誥となり、庫部郎中に転じた。長慶4年(824年)、張又新と対立し、常州刺史として出された[1][2]。
大和元年(827年)、入朝して太常寺少卿となった。大和2年(828年)、本官のまま知制誥となった。大和3年(829年)7月、中書舎人に任じられた。大和4年(830年)9月、知礼部貢挙をつとめた。大和5年(831年)、正式に礼部侍郎に任じられた。大和7年(833年)5月、兵部侍郎に転じた。大和8年(834年)11月、京兆尹となり、御史大夫を兼ねた。大和9年(835年)4月、検校礼部尚書・潤州刺史・浙江西道観察使とされたが、出向しないまま、中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)に任じられ、姑臧県男に封じられた。まもなく集賢院学士・監修国史を加えられた[3][2]。
11月21日(12月14日)、甘露の変で李訓らが挙兵すると、賈餗は服を変えて逃げ出し、民間に潜んだ。翌日、神策軍に出頭した[4][5]。11月24日(12月17日)、賈餗は一族とともに処刑された[6][7]。