高松藩士・赤井十郎左衛門直通の嫡子として生まれる[1]。武術を好んでいたが、二十歳頃に学問の道を志し、家督を弟に譲って江戸に出て古賀精里に入門し、昌平黌でも学んだ[1][2]。
5年間の学びの後、文化10年(1813年)昌平黌を出て開塾[1][2]。文政12年(1829年)高松藩に十人扶持で仕官して世子の侍読となり[2]、使番として百俵を賜るまで累進した[1]。尚歯会に加わり[3]渡辺崋山、高野長英とも交際し、洋学の必要性を認め、高松藩執政に対して藩内の子弟に洋学を学ばせることを勧めた[1]。
学風は朱子学を元とし諸家の説を折衷したもので、進歩的開化思想も持っていた[1][2]。墓所は青山霊園。