赤松家 (男爵家)
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赤松則良は、江戸幕府御家人吉沢政範の次男で実祖父にあたる播磨綱干の商人赤松良則の養子となった[1]。同赤松家は赤松義則の養子である幸橋新五郎繁広(赤松満政の子満直の実子)の末裔であり[3][4]、赤松氏の庶流の一つにあたる[2][3]。
則良は、幕末に坪井信良に蘭学を学んで幕臣となり、万延元年には勝海舟とともに咸臨丸で渡米し、文久3年からオランダに留学。明治3年から兵部省に出仕し、明治7年に海軍少将に任官し、征台の役に従軍した[1][2]。
凱旋後、海軍省主船寮長官、横須賀造船所所長に任じられて海軍の造船に従事し、明治19年には海軍造船会議議長、兵器会議議長、将官会議議員などに就任し、明治20年5月には勲功により華族の男爵に列せられるとともに、海軍中将に昇進した[1][2]。その後も佐世保や横須賀の鎮守府司令官を務めた[1]。軍職を退いた後には貴族院の男爵議員にも当選して務めた[2]。
則良が大正6年9月に隠居した後、長男範一が爵位と家督を相続[5]。範一は東京製綱専務取締役、台湾繊維取締役会長、東京針金工業取締役、満州パルプ工業取締役、三菱商事・小島印刷・日本空気機械各社の監査役などを歴任して実業家として活躍しつつ、大正7年以来貴族院の男爵議員に当選して務めた[2]。彼の代の昭和前期に赤松男爵家の住居は、東京市品川区大井鈴ヶ森町にあった[2]。