小田部雄次
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東京に生まれ、茨城県水戸市に育つ。茨城県立水戸第一高等学校を経て、茨城大学人文学部卒業。1985年立教大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。静岡精華短期大学国際文化学科助教授[6]、2002年ビジネス情報学科教授、2004年静岡福祉大学 社会福祉学部教授 [4]、2018年静岡福祉大学 名誉教授。
専攻は日本近現代史で[7]、立教大学では粟屋憲太郎に師事し日本ファシズムを研究[8]、その過程で内務官僚松本学の日記や安岡正篤書簡を通じて学習院赤化事件や革新華族の存在に注目する[9]。 その後、『徳川義親日記』を通じて[10][11][12]華族制度史への研究へ移り、華族財産や家宝の売却過程に関する研究も行う[7][13][14][15]。さらに共同通信社会部長・宮内庁記者の高橋紘の紹介で旧皇族妃梨本伊都子の日記を読み[16]、宮中と女性などをテーマに皇族研究を行う[4][17]。
エピソード
"竹田恒泰"に対して、恒泰の父である恆和は、父の恒徳王が皇籍離脱した後に生まれているため、生涯で一度も皇族であったことはない。また、1920年5月19日に内規として裁定された「皇族の降下に関する施行準則」では「長子孫の系統四世を除く全ての王が華族に降下する」ことに定められている。竹田宮の場合、北白川宮能久親王が1世、竹田宮恒久王が2世、離脱した竹田宮恒徳王が3世、同じく離脱した竹田宮恒正王が4世であり、この世代以降は全て皇族ではなく華族となる[18]と主張している。
悠仁親王の盗撮被害に関するコメントのなかで、「一概に責めることはできない」と盗撮犯を擁護した[19]。
悠仁親王のワンルームでの一人暮らしについて「たとえ賃料が割安であっても、安価な食材を購入されていても、その生活は厳重な警備体制のなかで成り立っています。悠仁さまが、“つつましい生活”を心がけられたとしても、秋篠宮家の金銭感覚への国民の批判がどれだけ軽減するか判断は難しい」と痛烈に批判し、物議を呼んだ[20]。