超然主義
日本の帝国議会開設後に内閣が採ろうとした立場
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超然主義演説
黒田清隆
1889年(明治22年)2月12日、帝国憲法発布翌日の地方長官祝賀の席上で黒田清隆首相のいわゆる超然(主義)演説が行われる[3]。
当日それを書き起こした書類が配布されており、単なるテーブル・スピーチではなく政府の公式見解と位置付けられていたことが伺われる[4]。この書類と思しきものが国立国会図書館憲政資料室所蔵「牧野伸顕文書」に収録されており、これが超然演説の正文である[5]。
一般的には、吉野作造編『明治文化全集 第三巻』(日本評論社、1929年)に掲載されたものの再引用が踏襲されているが、流布版で「一定の方向」となっている部分は牧野文書では「一定の政策」と書かれ、具体性が増している[7]。
伊藤博文
2月15日、長州藩閥の指導者伊藤博文も府県会議長招待宴で次のように演説[8]。
苟 も帝国議会の議長たるものは自己の撰挙せられたる一部の人民を代表するにあらすして(略)汎 く全国の利害得失を洞察し、専ら自己の良心を以て判断するの覚悟なかるへからず。然りと雖も互に其意見を異にするに至ては勢ひ党派を生ずべし。蓋 議会又は一社会に於て党派の興起するは免れしと雖も、一政府の党派は甚だ不可なり[9]。畢竟 党派は民間に在ては止むを得ざる結果なりと雖も是を以て政府にまで及ぼすは難事なりと思考せさるを得す[10]。(略)世上動 もすれば藩閥政府と云ひ又薩長政府と説き、今の当路者は永久其地位を保たんことに恋々するか如く評するものあるも、是揣摩の甚しきものなり[11]。 — 伊藤博文、1889年2月15日
※当路者=政権枢要。揣摩(しま/すいま)=推測・憶測。
反響
「超然政党の外に立」つと言いながら、当の黒田内閣の外相大隈重信は改進党の指導者であり、井上馨農商務大臣も自治党を組織しようとしていたため(最終的に実現せず)、超然演説は困惑を以て受けとめられた[12]。
谷干城
保守派の谷干城は、「政党外に立つの説……暫時の間は或は行はるべし。然れ共年月を経るに従ひ必す変化を来たすは火を見るよりも明らかなり。現に即今とも已に其の萌芽あるに非すや。大隈氏の改進党に於ける、井上氏の自治党に於ける、仮令自分改進、自治の党員に録し居ざるも、隠然政府外に党援のあるありて自己の位置を衛護するあれば、名は政党外の大隈、井上氏等と雖も実は改進党の大隈氏、自治党の井上氏たらざるを不得なり」と日記に記し、将来的な政党政治の不可避を予想[13]。
改進党
事実上の党首大隈重信が外相を務めており、準与党の立ち位置にあった改進党系の言論機関誌は、超然演説を反政党的なものとは捉えず、政府が政党に「不偏不党」の態度をとるのは当然として好意的に受け止めている[14]。また、両演説とも党派存立の不可避を述べているところから、議会政治となれば政党の支持無しに円滑に政権を維持することは不可能であることを政府は十分認識しており、ただ現時点で政党が政権を担うには力不足であるというに過ぎず、したがって天皇の信認を得られるだけの有力穏健な政党の形成が急務であるというのが一般的な反応であった[15]。
自由党
これに対して自由党系の反応は、議会政治を採る以上、理論上も欧州政治の実際上も「不偏不党」足りえないことを強調するものであった[16]。もとより主権者たる天皇は不偏不党であるべきだが、藩閥政府は既に党派ではないか、したがって「不偏不党」たるべきは政府と議会の関係ではなく、天皇が国民に対して一視同仁の徳を以て臨むべきことに過ぎず、政治上の党派対立を天皇に及ぼさないようにすることが肝要であるとし、また超然主義を掲げておきながら大隈重信や井上馨を抱えることから、政権内の対立が噴出したものと分析[17]。
陸奥宗光
官僚の陸奥宗光も、黒田演説につき「内閣は帝室を輔翼し奉り、『ステイト』の全体を視るものなれば、其『ステイト』の一分を表する政党なる者は何れの党派を問はず一切内閣と関係する能はずとの意」と要約した上で、「学理的の見解は兎も角も、実際は如何にして衆党派に離れて国会の多数を得べきか」として、机上の空論で不可能だと批判している[18]。
超然主義の類型
第2回総選挙後、内務省参事官都筑馨六の意見書においても、「憲法行はれて
黒田と伊藤によると、政党・党派の害は、国民の一部しか代表せず、国家的・全国民的利害を十分反映できないことにある。この前提に立つと、その解決方法は
- 1.全ての政党を政権から排除する(全党排除型)
- 2.全政党を政権に参加させることで代表性を高める(全党参加型)
- 3.国家的・全国民的利害を理解する良識ある有産有識層による政党を作る(良民政党型)
- 4.広汎な国民を結集して代表性の高い政党を作る(国民政党型)
の四類型が考えられる[21]。
藩閥政府自身においては、(1型)のような政党との完全対決は必ずしも指向されておらず、井上馨は明治20年ごろから地方の有産有識層を中心に自治党を組織して議会に備えようとしていたし(3型)、黒田内閣はその井上に加えて立憲改進党の指導者大隈重信を外相に加え、超然演説の1か月後には大同団結運動指導者の後藤象二郎が逓信大臣として入閣、さらに保守派の谷干城や自由党の板垣退助をも政権に取り込もうとしていた(2型)[22]。したがって、政党の外に立つというよりはむしろ「挙国一致内閣」と称すべき性質のものであった[23]。
都筑馨六の官僚型超然主義
黒田・伊藤演説における超然主義は、挙国一致内閣の内部における諸勢力の調整という程度の意味でしかなかったと言える[24]。しかし、政情が変化すると、政党内閣の拒否にとどまらず、行政府による立法府無視の立場を現すものに変質[25]。明治25年7月に書かれた都筑馨六の論文は、その最も極端かつ典型的なものである[26](1型)。
超然主義とは如何なる主義を指示し、其主義の基づく所の理由は那辺に在るやを説明し……以て将来此主義に依て国家を治めむと欲する者の参考にせしむ……大臣たるもの国王を補佐するの義務を有するのみ……他の機関即ち議会の如きものに対して其責に任ずべきの謂れなく、国王の臣民一般に対しては尚更ら其責に任ずべきの理由を見る能はざるなり……立憲国の大臣は其内治に於ては毎に国是を以て施政の目的となし、正々堂々其意見を天下に公けにし、自ら国是と信ずる所を貫徹する事を勉め、苟も自己の信ずる所にして変更する事なき向は、如何程議会若くは輿 論が之れに違反する事あるも、不屈不撓して其意旨のある処を奏請し、議会にして之れに不同意を唱へ、終に其不同意の為めに必要ありと信ずる所の事業廃頽を来すが如き事あらば、則ち自己の意見に同意するの議会を得るまでは、何回にても其の解散を奏請せざるべからざるなり。政党の希望する所をも奏請せず、議会の意旨も奏請せず、自ら国家の目的に関して確乎たる考案を立て、其百官有司に命じて万般事業を専門的に研究せしめて以て国家をして其目的を達せしむ[27]。 ……帝国憲法は人民の負担を規定するに予算を以てせしめず、毎に法律を以て之を規定し、租税として法律の変更あるまでは毎年の予算の如何に係らず、且つ毎年の支出如何に係らず、政府に於て之を撤収するの義務を有するものあるが故に、予算は人民の負担を規定するものと云ふを得ざるなり。……予算に於ける歳出の増減は、未だ必ずしも直ちに人民の負担を増減するものに非るなり。……之を換言すれば、予算に関する議会の最も重要なる職務は消極的のものにして、行政官の非議を側面より視察するに在りと云はざるべからず[28]。 — 都筑馨六「超然主義」
立憲制施行直後にこれほど明確に世論と議会の無視を表明したものは他に類を見ない[29]。後に鵜崎鷺城に「官僚の権化」「官府万能膏の臭ひ」と評された都築による、行政の「専門」家たる官僚が代議士より遥かに優れた存在という一種の選民思想に基づくものと解される[30]。
民権論者の主張する所は則ち可成丈多数の人民をして可成丈汎く政権施行に参与せしむべしとの説なり。然り而して此説の基礎を為すの思想は、則ち人間の賢愚を問はず、其貧富を顧みず、其教育の有無を慮らず、総て皆同等の動物なりとの考案なり。……然るに一国の多数は汎そ凡人なり、卓識は毎に少数なり。又多数は貧者なり、富者は毎に少数なり。又多数は無教育者なり……故に多数の政治は毎に多数の凡人を以て少数の識者を圧し、多数の貧者を以て少数の富者を圧す。宜なる哉多数に依て政を施せむとする国は毎に圧制に流るゝこと[31]。 — 都筑馨六「民政論」
一方で、第1次松方内閣の選挙干渉に対しては、自ら超然主義を標榜しながら一党一派に肩入れした政治行為を超然主義の逸脱矛盾とみて批判している[32]。
憲法解釈問題
実践的な憲法解釈論としては、都筑説では議会・国民は租税の「額」についてのみ参政権を持ち、その「使途」についてはせいぜい「視察」権を持つに過ぎないと主張する[33]。
大日本帝国憲法第64条
- 1.国家の歳入歳出は毎年予算を以て帝国議会の協賛を経へし
- 2.予算の款頁に超過し又は予算の外に生したる支出あるときは後日帝国議会の承諾を求むるを要す
大日本帝国憲法第67条
- 憲法上の大権に基つける既定の歳出及法律の結果に由り又は法律上政府の義務に属する歳出は政府の同意なくして帝国議会之を廃除し又は削減することを得す
大日本帝国憲法第71条
- 帝国議会に於て予算を議定せす又は予算成立に至らさるときは政府は前年度の予算を施行すへし
すなわち、「協賛」は同意ではなく、しがたって議会は予算決定に参与する権利のみを有し、専権を持たないと解すると、議会の予算審議権を一般的に定めた64条自身が既に制限されたもので、67条により二重に制限されていることになる[34]。なお立法経過に着目すると、明治憲法成案に「翼賛」(advise)ではなく「協賛」(consent(承諾合意))とは、天皇すらも議会の協賛なくしては立法権を行使できないとするのが本来の立法趣旨であった[35]。67条は初期議会における政府と議会の主要争点の一つだったが、争論は「政府の同意」または不同意の表明の時期・方法に集中されたため、こんにちまで67条と71条の関係は十分明らかになっていない[36]。都筑説によれば、67条は部分的な原案執行権を定めたもので、総予算不成立による前年度予算執行の場合でも、67条で定められた部分だけは本年度の政府原案が議会の同意無しにそのまま成立するというのである[37]。
都筑説への批判・異論
このような極端説には藩閥政府及びその周辺からも批判が強く、特に谷干城は都筑の憲法解釈論に対して「
第二次伊藤内閣の大蔵大臣渡辺国武も都筑と正反対の考えを主張しており、首相宛意見書では67条の「憲法上の大権に基つける既定の歳出」とは(一)勅任奏任判任官の俸給(ニ)陸海軍軍事費中の俸給・糧食・被服・馬匹費等であるとし、「前年度予算に於て金額を決定せるものを云ふ」と明言している[39]。「抑も同条は単に法律、命令、契約等に依り金額確定し、其法律、命令、契約等を変更するにあらざれば金額を動かし得べからざるものの為めに設け、以て予算と共に法律、命令、契約等の上に甚しき変更を及ぼさざるの保証を為したるものなり。而して大権に基ける歳出に関しては特に既定の二字を加へ、憲法の保障を予算決定済のものに止め、新置増加の歳出に付ては議会の協賛権に十分の力を付与したるものとす。是れ至当の見解と被存候」というのが理由である[40]。
伊藤系の官僚井上毅も、「政府は政党の外に厳正中立を取るの説は法律上に適用するは可なり(政友と政敵を問はず同一の法律を以て制御するの意)と」しながらも、現実の政治上では不可能であり、政府支持党の育成のみならず、都筑が激しく批判したような民党との妥協結託すら必須不可欠だと意見書の中で主張している[41]。
超然主義の終息
大隈重信が条約改正の失敗で退いた後、改進党に代わったのが自由党であった。伊藤内閣への接近は第4議会前から試みられており、第5・6議会では自由党は伊藤内閣の実質的な与党としてふるまったが、日清戦争後になると、戦後経営を巡って膨大な予算と増税が不可避になり、前年度予算の最低保証だけでは到底機能しえず、政党の力が増したことを背景に、自由党は公然と伊藤内閣との提携を宣言し、政府に協力する代償として、板垣退助を内務相として入閣させる[42]。一般的には、この時点で藩閥政府の超然主義は放棄されたものと解されている[43]。
県知事すらも公然馬鹿呼ばわり、傀儡扱いするなど内務省内の反政党山縣閥の有力者として君臨してきた都筑は危険人物とみられて江木千之とともに辞職に追い込まれたが[44]、その後も山縣有朋を中心とする反政党グループは清浦内閣が第二次護憲運動に敗れるまで、郷党色を薄めながら政界にかなりの影響力を保持していた[45]。
1900年(明治33年)8月25日、立憲政友会創立委員会が開かれ、宣言の中で伊藤は閣僚の任免につき党員非党員のいずれをとるかは天皇大権に属することを指摘し、天皇の信認があれば政党内閣が許されるとしたうえで、制度としての政党内閣制、議員内閣制を否定し、あくまで行政府は党利党略や利益誘導から離れて国民国家の為に行動すべきとして、超然主義の原則を守った[46]。国民を真に代表し、国益本位に行動する「良識」ある「国民政党」なら許容されるという、伊藤の超然主義解釈を具体化したものであった[47]。
清浦超然内閣
超然主義の評価
従来、明治憲法体制をもっぱら専制的なものとして否定的にみる戦後史観を背景に、超然主義は明治政府の保守的専制的性格を表すものと受け止められるのが一般であったが、伊藤の演説に明らかなように、私利私欲により「一部の臣民を代表する」党派性の超克を説くのが本来の趣意であり、薩長閥による永続的な日本支配は現実的でないとみて、藩閥政府自身の将来的な自己否定をも視野に入れたものであったとの見方も主張されている[51]。
超然主義は既に滅びた過去の遺物ではなく、その本質たる党派性の排除は日本人の政治風土に根付き伏流して現在に至っており、戦後においても参議院の緑風会運動、地方首長選挙の相乗り、地方議会での無所属議員の多さ、膨大な一般有権者の無党派層など、至る所に超然主義の末流を見出すことができると主張[52]されている。