都筑馨六
日本の官僚、外交官、政治家
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生涯
上野国高崎藩稲荷台(現:群馬県高崎市)の名主・藤井安右衛門(のち安治)の二男として生まれる[1][2]。満1歳を迎える前に西条藩士・都筑侗忠の養子となり、渋谷の藩邸で暮らすこととなった[2][1]。幼少期から同藩士・阿曽沼正六綱義に素読の教えを受け[1][2]、10歳のときからは芝新堀町の千村塾に通った[1][2]。さらに横浜の修文館、カロザースの築地大学校で学ぶ[1][2][3]。15歳のときに東京開成学校へ入学[1][2]。1881年(明治14年)7月、旧東京大学文学部(政治理財学専攻)を卒業した[4][2]。同窓には坪井九馬三や嘉納治五郎がいた[4]。翌1882年(明治15年)、文部省留学生としてドイツに渡り、ベルリン大学で政治学を学んだ[5][2]。
1886年(明治19年)に帰国し、外務省に入り公使館書記官兼外務省参事官に任命される[6][2]。さらに外務大臣井上馨の秘書官に就任[6][2]。1888年(明治21年)よりフランス・パリに留学する[7][2]。翌1889年(明治22年)山縣有朋内務大臣の欧米巡回に随行者として加わった[7][2]。1890年(明治23年)山縣首相のもとで内閣総理大臣秘書官に就任[8][2]。さらに内務省参事官を兼任し[8][2]、法制局参事官にも任命される[9][2]。
1892年(明治25年)行政裁判所評定官を兼任[10]。この年、井上の養女・光子(男爵・新田俊純の二女)と結婚[11]。しかし1916年(大正5年)に離婚[11]。芝・紅葉館の給仕であった妾の静子(旧姓不詳)を妻とした[要出典]。1915年(大正4年)には嗣子の忠春をもうけている[10]。
その後、1893年(明治26年)より法典調査会査定委員を務める[9]。1894年(明治27年)内務省土木局長[12]。1896年(明治29年)宮内省図書頭に任命され、山縣特命全権大使の随員としてロシアに赴き、モスクワでニコライ2世の戴冠式に出席している[13]。1897年(明治30年)文部次官に任命され[14][2]、第2次山縣内閣で外務次官に任命される[14]。
1899年(明治32年)4月19日、貴族院勅選議員に任じられ[15][10]、1909年(明治42年)2月27日[16][10]まで在任。1900年(明治33年)に伊藤博文が立憲政友会を結成するにあたっては創立委員の一人としてこれに参加している[17]。1903年(明治36年)7月、伊藤が枢密院議長に就任したのに伴って、枢密院書記官長に就任した[17]。1907年(明治40年)には特命全権大使に任じられてオランダ王国のハーグで開催された第2回万国平和会議に出席[18][2]。ハーグ密使事件の対応にあたっている[18]。同年6月、法学博士号を授与された[18]。
1908年(明治41年)8月、男爵を叙爵し、勲一等旭日大綬章が授けられた[10]。1909年(明治42年)2月23日、枢密顧問官に任命される[19][20]。以後その死まで在職した[20]。
1923年(大正12年)7月5日、鎌倉の別邸で死去した[21]。危篤の報により同日正二位に叙せられている[21]。享年63歳[21]。同月8日、穂積陳重を葬儀委員長として告別式が営まれ、千駄ヶ谷町の日蓮宗・仙壽院に葬られた[21]。法号は大法院殿了達馨光日華大居士[21]。
栄典
- 位階
- 1886年(明治19年)7月8日 - 従六位[22][10]
- 1891年(明治24年)12月10日 - 正六位[23][10]
- 1892年(明治25年)12月12日 - 従五位[24][10]
- 1894年(明治27年)7月20日 - 正五位[25][10]
- 1897年(明治30年)8月20日 - 従四位[26][10]
- 1899年(明治32年)9月21日 - 正四位[27][10]
- 1907年(明治40年)5月31日 - 従三位[28][10]
- 1912年(明治45年)6月21日 - 正三位[29][10]
- 1919年(大正8年)6月30日 - 従二位[30][10]
- 1923年(大正12年)7月5日 - 正二位[31][21]
- 爵位
- 勲章等
| 受章年 | 略綬 | 勲章名 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1896年(明治29年)9月8日 | 勲四等旭日小綬章[33][10] | ||
| 1899年(明治32年)6月20日 | 勲三等瑞宝章[34][10] | ||
| 1899年(明治32年)12月27日 | 旭日中綬章[35][10] | ||
| 1903年(明治36年)5月21日 | 金杯一個[36][10] | ||
| 1906年(明治39年)4月1日 | 勲二等旭日重光章[37][10] | ||
| 1908年(明治41年)8月4日 | 勲一等旭日大綬章[38][10] | ||
| 1912年(大正元年)8月1日 | 韓国併合記念章[39][10] | ||
| 1915年(大正4年)11月10日 | 大礼記念章[40][10] | ||
| 1916年(大正5年)4月1日 | 大正三四年従軍記章[41] |
- 外国勲章佩用允許
親族
伝記
- 馨光会編『都筑馨六伝』馨光会、1926年。