越中哲也
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長崎の民話「飴屋の幽霊」(毎年8月16日が御開帳日となる「産女の幽霊像」も光源寺で保管[4])の話の舞台になった光源寺の息子として生まれる。長崎県立長崎中学校、龍谷大学文学部仏教学科卒業後、徴兵され戦地へ。復員直後、焼け残った県立図書館に通っていたところ古賀十二郎、渡辺庫輔、片岡弥吉、林源吉、永島正一などの郷土史家に出会ったことが契機となり、自身も郷土史研究の道を歩むことになる[5][6]。1955年(昭和30年)に長崎市職員となり、長崎市立博物館に学芸員として勤務、1974年(昭和49年)館長に就任[7]。
定年退職の翌年にあたる1982年(昭和57年)[2]、長崎歴史文化協会を設立し理事となり現在に至る。1983年(昭和58年)、当時の純心女子短期大学英米文化科教授に就任し1996年(平成8年)3月まで務めた。1998年(平成10年)、長崎純心大学長崎学研究所の研究員となる。2001年(平成13年)、母校龍谷大学から第12回龍谷賞を受賞[5][8]。長崎の様々な文化に関する研究を行い、テレビやラジオなどのメディアにも出演し[9]、長崎の生き字引と称され[7]、市民からは「越中先生」と呼ばれて親しまれていた[10]。
2021年9月25日朝、老衰のため長崎市の病院で死去。99歳だった[11][12]。12月で100歳を迎えることから記念のくんち手ぬぐいも準備されたところだった[13]。死去に伴い、長崎市長の田上富久からもお悔やみのコメントが発表された[10]。