孝宗の在位中に明州知州・沿海制置使や顕謨閣直学士・龍図閣直学士を歴任、光宗が即位すると少師に昇任、後に太保となる。紹熙2年(1191年)、判大宗正事に任じられ太師となり、また崇信軍節度使を兼ねた。
嘉泰2年(1202年)に没すると、崇王に追封された。
子に趙師夔・趙師揆・趙師垂・趙師禼・趙師禹・趙師皋・趙師嵒・趙師弥・趙師貢の9子がある。また、弟である孝宗の提案で明州時代から関係があった同地出身の宰相史浩の末子である史弥堅(史弥遠の弟)に娘の新安郡主を嫁がせている[3]。
南宋末から元初にかけての政治家・文人である趙孟頫は、趙師垂の曾孫にあたる。