趙友鳳
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中国・江蘇省南京市郊外の出身[1]。4人兄妹の末っ子だった(上に兄3人)[1]。
1980年代半ばに愛知県陸上競技協会から江蘇省を訪問した竹内伸也(当時愛知教育大学教授で愛知県陸上競技協会強化委員長)に才能を見いだされ、もう一人の選手とともに日本に陸上留学する(滞在経費はすべて竹内が負担した)[2][注釈 1]。来日したのは1986年秋だった[3]。来日当初は竹内の自宅に住み込み[1]、競技と生活の両面で指導を受けた。
1987年3月の名古屋国際女子マラソンで初マラソンを走るが、直前の風邪による発熱もあり、2時間48分43秒に終わる[1]。4月の兵庫リレーカーニバルでは10000mに出場し、荒木久美・浅井えり子・小島和恵ら日本のトップランナーを抑えて優勝した[1]。
1988年3月、前年に続き2回目のマラソンとなる名古屋国際女子マラソンに出場[1]。当時はまったくの無名選手であったが、レースでは連覇をねらったオランダのカーラ・ビュースケンスとの競り合いに勝って、マラソン初優勝を遂げる[1]。ゴールタイムの2時間27分56秒は、1月の大阪国際女子マラソンで宮原美佐子が樹立したばかりの記録(2時間29分37秒)を、1分半以上も上回るアジア女子最高記録であった[1]。この成績により、中国のソウルオリンピック女子マラソン代表に選出される。
同年9月のソウルオリンピック本番でも、20位台と不調の日本代表3選手(浅井えり子・荒木久美・宮原美佐子)を尻目に20kmまで先頭集団に入り、五輪メダル獲得はならなかったが2時間27分06秒の自己ベスト記録で、5位入賞を果たした[4]。オリンピック女子マラソンでの入賞は、アジアの選手としては初めてだった。
名古屋国際女子マラソンでは翌1989年も2時間28分20秒で優勝、大会初の2連覇を達成する[5]。1990年4月のロンドンマラソンに出場、2時間29分35秒で4位に入るが、このとき両足の指の付け根を痛める[6]。痛みが完治しないまま迎えた9月の北京アジア競技大会では、途中で先行した日本代表の荒木久美を抜き返し、19秒差で抑えて、2時間35分15秒のタイムで故国の大会での金メダリストとなった[6]。同年10月に愛知教育大学大学院の試験を受ける[6]。のちに愛知教育大学大学院に進学。
大学院修了後は、竹内が監督を務める東海銀行の陸上部に進む。しかし、外反母趾を持病として抱えるようになる[7]。治療のため手術も受けたが[7]、以前のような好成績をあげることはできず、1995年に名古屋国際女子マラソンの完走(2時間40分45秒・25位)を最後に、競技から退いた。引退後もコーチとして東海銀行(のちUFJ銀行)の陸上部に所属し、世界陸上選手権代表となる大南博美・敬美双子姉妹などを指導。この間結婚し、2000年に出産を理由にUFJ銀行を退社。
2001年より至学館高等学校陸上部で指導。2008年よりスズキの陸上競技部コーチに就任し、2010年に同部が企業直属の実業団チームからクラブチームであるスズキ浜松アスリートクラブへと体制が変更された後も指導をしていた(2021年現在は退任)。