『拾遺記』には次のような生涯が記されている[2]。
絵が得意で並ぶ者がおらず、様々な糸を操り龍や鳳の錦を作り上げた。宮中では「機絶」と呼ばれた。最初、孫権は魏や蜀漢をまだ平定できていないことを憂い、優れた画家に地図を描かせることを思い付いた。趙達は自分の妹を孫権の夫人として贈った。また、趙夫人が写した江湖や九州山岳の地図を進呈した。さらに趙夫人は、四角い帛の上に五岳と列国の地形を刺繍で作り上げた。当時の人からは「針絶」と呼ばれた。また、膠で糸と髪を連ねて軽い幔を作った。孫権は軍中にいる時も、常にこれを携帯していたという。「絲絶」と褒め称えられた。その三つの才能は、共に「呉の三絶」と呼ばれている。後に寵愛の独占欲が強い者の中傷を受けて後宮を退出したが、その才能は引き続いて大切にされた。呉の滅亡後に行方不明となった。