趙植 (唐)
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建中4年(783年)、朱泚の乱が起こり、徳宗が奉天に避難すると、近衛が集まらず、数日のあいだ反乱軍が城を攻め立てた。趙植は家人や奴客を率いて防戦し、家財を献上して軍の褒賞にあてたので、徳宗に称賛された。興元元年(784年)、朱泚の乱が平定されると、趙植は咸寧郡王渾瑊に召し出されて推官となり、殿中侍御史に累進した。貞元元年(785年)、鄭州刺史に出向した。鄭滑節度使の李融の下で節度副使を兼ねた。貞元10年(794年)、李融が病に臥すと、趙植は滑州の軍政を委ねられた。大将の宋朝晏が三軍を率いて反乱を起こし、夜間に火を放つと、趙植は監軍とともに兵をならべてこれを待ち構えた。明け方に反乱兵は自壊し、その日のうちにみな斬り殺された。趙植は入朝して衛尉寺少卿となり、三度異動して工部侍郎となった。貞元17年(801年)、広州刺史・兼御史大夫・嶺南東道節度観察等使をつとめた。のちに広州で死去した[1][2]。