趙隠

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趙 隠(ちょう いん、生年不詳 - 881年)は、唐代官僚政治家は大隠。本貫京兆府奉天県[1][2]

大和4年(830年)に父の趙存約が非命に斃れたため、趙隠は泣いて墓を守り、十数年のあいだ門戸を閉ざし読書して、召命に応じなかった。会昌年間、父の友人が権臣となり、仕官を勧めたので、趙隠はようやく召命に応じ、従事をつとめた。大中3年(849年)、進士に及第した。のちに刺史・尚書郎・給事中河南尹・戸部侍郎兵部侍郎を歴任し、塩鉄転運等使をつとめた[3][2]咸通13年(872年)、本官のまま同中書門下平章事(宰相)となった[4][5]。中書侍郎を加えられ、礼部尚書を兼ねた。特進となり、天水県伯に封じられた[3][2]

乾符元年(874年)、宰相を退任し、検校吏部尚書潤州刺史・浙江西道都団練観察等使として出向した[6]。入朝して太常寺卿となり、吏部尚書に転じた。尚書左僕射を加えられた。広明2年(881年)、死去した[3][7]

家族

  • 祖父:趙植[1][2]
  • 父:趙存約(興元府従事、山南西道節度使の李絳とともに殺害された)[3][2]
  • 弟:趙騭(礼部侍郎・御史中丞、華州刺史・潼関防禦・鎮国軍使)[3]
  • 子:趙光逢
  • 子:趙光裔(司勲郎中・弘文館学士、膳部郎中・知制誥、清海軍節度副使)
  • 子:趙光胤(駕部郎中、後梁に入って顕位を歴任した)[8]

脚注

伝記資料

参考文献

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