趙隠
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大和4年(830年)に父の趙存約が非命に斃れたため、趙隠は泣いて墓を守り、十数年のあいだ門戸を閉ざし読書して、召命に応じなかった。会昌年間、父の友人が権臣となり、仕官を勧めたので、趙隠はようやく召命に応じ、従事をつとめた。大中3年(849年)、進士に及第した。のちに刺史・尚書郎・給事中・河南尹・戸部侍郎・兵部侍郎を歴任し、塩鉄転運等使をつとめた[3][2]。咸通13年(872年)、本官のまま同中書門下平章事(宰相)となった[4][5]。中書侍郎を加えられ、礼部尚書を兼ねた。特進となり、天水県伯に封じられた[3][2]。
乾符元年(874年)、宰相を退任し、検校吏部尚書・潤州刺史・浙江西道都団練観察等使として出向した[6]。入朝して太常寺卿となり、吏部尚書に転じた。尚書左僕射を加えられた。広明2年(881年)、死去した[3][7]。