趙璧 (元)
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趙璧は後の第5代皇帝となるクビライがまだ王族に過ぎなかった頃、その名声を聞いて召し出され23歳の時からクビライに仕えるようになった[1]。この頃、ココらモンゴル人10人らに講義を行い、時には馬上で行うこともあったという[1][2]。
クビライの兄のモンケが第4代皇帝(カアン)として即位すると、趙璧は燕京等処行尚書省に配属されて六部の事(=漢地行政)を統べた[3]。ある時、趙璧はモンケ・カアンに召し出されて天下の統治について問われたが、「まず近侍でもっとも善しからざる者を誅すべきです」と答えてモンケの不興を買ったという[3]。またある時、マフムード・ヤラワチが先帝の治世に下賜された印を用いることをモンケ・カアンに請うた時、その場に居合わせた趙璧が皇帝の聖裁を軽んじる言動であると痛烈に非難し、以後ヤラワチは重用されなくなったという[3][4]。
1252年(壬子)、史天沢・楊惟中らとともに河南経略使に任じられたが、この頃河南では劉万戸が都中に賄賂を求める横暴な統治を行っていた[5]。劉万戸の配下の中でも主簿は民に無理強いし妾を30人も抱えるなど特に悪質で、河南に赴任した趙璧は真っ先にこれを処刑した。驚いた劉万戸は趙璧の家を訪れて懐柔しようとしたが果たせず、この頃から病に伏せって間もなく亡くなったため、人々は趙璧を恐れて死んだのだろうと噂したという[6]。1259年(己未)、江淮荊湖経略使とされている[7]。
四川遠征中にモンケ・カアンが急死し、中統元年(1260年)にクビライが第5代皇帝として即位を宣言すると、董文炳らとともに燕京宣慰使の地位を拝命した[8]。なおこの人事は、モンケ・カアンの治世に設置された燕京等処行尚書省を新たな行政機構(=後の中書省)に再編する布石であったと推測されている[9]。この頃、蜀(陝西・四川)方面軍への物資補給が続いたことから燕京の府蔵は空になってしまったが、趙璧が富豪から銭穀を徴発することによって兵糧の供給を絶やさなかったと伝えられる[1]。その後、中書省が設立されると平章政事の地位を授けられ、またダルハンの称号も与えられた。中統2年(1261年)2月、中書省の官員は燕京から開平に招集されて大人事異動が行われ、趙璧は平章政事兼大都督の地位に移った[10]。中統3年(1262年)に李璮の乱が勃発すると、北方への食糧供給が滞ったため、趙璧は済河を通じた兵站ルートを整え糧食を確保した[1]。なおこの頃、中書省の組織整備に尽力した王文統が李璮の乱に加担した罪で処刑されたが、日頃から廉希憲を妬んでいた趙璧は王文統を推薦した廉希憲・張易らも連座すべきではないか、と主張したという逸話が伝えられている[11][12]。
至元元年(1264年)、内戦が終結したことにより官制の整備が進み、趙璧は栄禄大夫の地位を授けられた。この頃、南宋に対する檄文の執筆を担当して評価され、枢密副使の地位に移っている。至元6年(1269年)、南宋の守臣で投降を約する使者を派遣した者があったため、その処遇をめぐる謀議を行うためアジュの下に派遣され、以後南宋との最前線に留まることとなった。ある時、南宋の将の夏貴が5万の兵と3千艘の軍船とともに襄陽城の救援のため接近してくると、趙璧は天険の地に伏兵を置きこれを待った。夜間、趙璧は伏兵を動かしてまず敵船を5奪い、「南宋水軍は既に敗れたぞ」と呼びかけたため、怖じ気づいた夏貴は軍を動かすことはなかった。翌日、アジュ率いる軍団が到着し、諸将とともに長江を渡って騎兵で夏貴軍を追撃し、趙璧は水軍万戸の解汝楫らとともに南宋水軍に接近し、虎尾洲で戦闘が繰り広げられた。この戦闘で南宋軍は大敗を喫して多くの溺死者を出し、趙璧は戦艦50を拿捕し将士300人余りを捕虜とする功績を挙げた[13]。
一方、前年の至元5年(1268年)には高麗の元宗が武臣の林衍によって王位を追われるという事件が起こっていたため、クビライは趙璧を召喚し頭輦哥とともに平壌に派遣した。趙璧らが到着する頃には既に林衍は死んでいたが、趙璧は元宗に江華島に都を置いたままであることが権臣の跋扈を招いているのであり、古京(=開京)に戻るべきであると助言したため、遂に元宗は開京への再遷都を決意したという。なお、趙璧らの帰還時には高麗の美人を同行することになり、趙璧にも3人が宛がわれたが、趙璧はみな郷里に還してしまったと伝えられる[14]。
帰還した趙璧は中書右丞の地位に移り、至元10年(1273年)には再び平章の地位に就いたが、至元13年(1276年)に57歳にして亡くなった[15]。息子は二人おり、趙仁栄は同知帰徳府事に、趙仁恭は集賢直学士となった。また、趙崇・趙弘という2人の孫がいたことも知られている[16]。