足利潤童子
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堀越公方・足利政知の三男として、伊豆で誕生した[1]。母は武者小路隆光の娘で、政知側室(正室とも)の円満院[1][注釈 1]。
異母兄の茶々丸が政知の命令で廃嫡された際、同母兄の義澄(当時は清晃)もすでに京都の天龍寺香厳院に入っていため[3]、潤童子が兄らに代わって世子に指名された[4][5]。茶々丸の廃嫡は、潤童子を政知の後継にしようと考えた円満院の讒言によるものとする説もある[5]。
延徳3年(1491年)4月、政知が死去したが、その死に際して、潤童子に家督を継承させるよう遺言を残したとされる[6]。その後、円満院が家政を差配し、潤童子による家督継承が図られた[7]。
7月1日、潤童子は実力による家督継承を図った茶々丸によって、円満院と共に堀越御所で殺害された[8][9]。
やがて、兄の義澄が明応の政変で新将軍に擁立されると、幕府奉公衆であった伊勢盛時に仇討ちを命じ、潤童子らを殺害した茶々丸を攻撃させたのが、いわゆる伊豆討ち入りであったといわれている[2][10]。また、堀越公方の基盤が伊豆北部にあったのに対して、茶々丸は盛時の侵攻後も伊豆中南部の在地領主の支援を受けて抵抗していることから、政知没後の混乱を、潤童子を推す堀越公方家臣団と、茶々丸を推す伊豆の在地領主、さらにその背後にいたとみられる山内上杉氏との対立とみる説もある[11]。