元来、跡部氏は信濃国佐久郡に本拠を持つ武家であった[1]。
応永23年(1416年)に上杉禅秀の乱が勃発、禅秀と姻戚関係にあった甲斐守護・武田信満は禅秀方に与し、その結果幕府軍に攻められ、甲斐木賊山にて自害した。
こうして、守護が不在の状況となった甲斐は混乱が広がり、在地土豪層や地下衆の蜂起などが相次いだ。幕府は、鎌倉府を牽制するべく武田信元(穴山満春?)を守護に任命し、甲斐へと入国させるものの、信元は国内の一揆鎮圧に失敗、信濃守護・小笠原政康を頼った[2]。
その後、武田信元は政康の軍事的援助を受けて甲斐への帰還を達成。同時に、跡部駿河守らも甲斐へと進出し、同国において形成されていた輪宝一揆の頭領となり、跡部氏はこの一揆を基盤として一定の勢力を形成するようになった。
鎌倉大草紙によれば、この頃から跡部駿河守は信元の意に従わず、専横していたという。
武田信元の死後(もしくは守護からの引退後)、武田信満の子・信長が自身の子・伊豆千代丸を擁して、駿河守と対立するようになる[3]。
永享5年(1433年)、跡部駿河守を筆頭とした輪宝一揆と、武田信長が甲斐国荒川にて衝突(荒川合戦)。この戦いに駿河守は勝利し、信長を駿河国へと没落させることに成功した[3]。信長と駿河守の衝突の原因は、跡部方の輪宝一揆と信長方の日一揆の対立にあるともされる[4]。
同年には、鎌倉公方・足利持氏が幕府との対立を深め、駿河国への干渉を行っており、駿河に在国する信長を討伐するよう幕府に要請している。また、この時期の風聞として、「満済准后日記」には、持氏が鎌倉府管国である伊豆の狩野氏、甲斐の跡部氏に駿河の富士大宮司を支援して、同国守護今川氏のもとへと向かわせたというものがあり[5]、このことからも鎌倉府の駿河介入が見て取れると同時に、跡部氏が鎌倉公方派だという風説が存在したことが分かる。
室町幕府は、鎌倉府の駿河への干渉を阻止するべく、信長を駿河より追放し、同時に甲斐国へも介入を始める。そして永享6年(1434年)11月、跡部駿河守ら甲斐国人は、幕府が擁していた武田信重(武田信長の兄・信満嫡男)が甲斐に下向した際には忠節を誓うと宣言している[6]。
跡部駿河守を頭領とする輪宝一揆は、甲斐国内で相当の勢力を持っていたが、その勢力は鎌倉府にも幕府にも公認されておらず、政治的に不安定な政権であった。このため、幕府の信重擁立に積極的に賛同することで、自らの勢力を政治的に確立させようとしていたと考えられている[1]。
その後も、跡部氏は武田信重と連絡を行っており、この年の12月には信重に対して注進を送っている[7]。
永享7年(1435年)3月には、駿河守ら跡部一門は、鎌倉府に内密で熊野参詣のため上洛する。このとき、甲斐国の情報を収集するべく、足利義教は跡部氏と対面を願っているが、駿河守らは鎌倉府に事の詳細が伝わるのを恐れたため、武田信重と会談した際に義教との面会を断っている[8]。
永享10年(1438年)、信重の甲斐入国が実現する。このとき、跡部氏は信重の補佐に尽力したようで、駿河守の同族である跡部掃部助が、足利義教より、計略を巡らして信重の入国を実現させた働きを称賛されている[9]。
その後も駿河守は勢力を保持した。甲斐源氏一統系図では、駿河守は甲斐の守護代であったとも記されており[10]、その権勢は伸長していた。
また、武田信重が宝徳3年(1451年)に没し、続いてその嫡子信守が康正元年(1455年)に死去すると、武田家当主は若年の武田伊豆千代丸(後の信昌)に継承されることとなり、こうして甲斐国はふたたび混乱に陥る。
跡部駿河守らはこの渦中でさらに台頭、長禄元年(1457年)小河原合戦および馬場合戦が発生[11]、両合戦で跡部方は他の甲斐国人を圧倒したとされる。長禄2年(1458年)にも合戦があり、若干二十歳の吉田春益が討死しており[11]、これらの合戦を通して駿河守やその子・上野介景家は勢力を拡げていった。
鎌倉大草紙によれば、武田家当主の伊豆千代丸(信昌)が幼少であったため、駿河守ら跡部氏が権勢を拡大し、甲斐国を壟断していたという。
また、このころには駿河守らが武田氏庶流岩崎氏を滅ぼしたともされ(ただし、岩崎氏と跡部氏、武田氏の関係については未だ検討が必要)、岩崎郷は跡部氏の所領となっている。
長禄2年以降では子息の跡部景家の活動が顕著となっていく。
寛正6年(1465年)では「甲州三家」の熊野参詣先達職に関する書状が残存しており[12]、この「三家」は「武田・辺見(逸見)・跡部一家」のことである[13]。跡部氏は、駿河守の数十年にわたる甲斐での活動により、武田氏や逸見氏といった国内の有力者に比肩する氏族と見做されるようになった。
跡部氏が強勢を誇る中、駿河守は寛正5年(1464年)に没したとされる。翌寛正6年(1465年)、跡部景家が武田信昌との合戦に発展。諏訪氏らの支援を受けた信昌は景家を撃破し、敗走して追い詰められた景家ら主従は西保の小田野城に自害した[10]。こうして跡部氏は衰退、武田氏の家臣に組み込まれていく。