逗子とんぼ
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日本大学芸術学部卒業[5][1]。大学卒業後、新派の地方巡業一座、清水金一一座などで下積み生活を送る[6]。1955年、これで芽が出なかった廃業することを考えながら[6]、三木鶏郎主宰のトリローグループに参加し、三木門下に入る[5][6]。芸名も三木が名付けた[7]。芸名はみんなで海水浴に行った時に生まれたという[7]。昭和30年代初め頃(1955年頃)から歌と洋舞とコントの得意な“二枚目半”として活躍[5]。色川武大は彼の風貌をして「万年青年のよう」と評し[7]、その風貌は「どの番組に出ても邪魔にならない」として「各テレビ局がまだ整備されていなかった時代、重量感のある番組が制作出来なかった当時は打って付けのタレントだった」としている[7]。
1963年時点では中川プロに所属[2]。
自らの活動の傍ら、「逗子とんぼ劇団」を主宰して年1回公演をすることを目標に活動、1年間稼いだ金を年1回の劇団活動につぎ込んでいた[7]。1989年当時は東京・高田馬場のラーメン店でアルバイトをしており[5]、この時もアルバイトで得た金は劇団活動に充てていた[5]。
エピソード
- 三木鶏郎門下に入る前は、元々シミキンこと清水金一の弟子だったこともあり[7]、三木門下入り後も清水に私淑していたという[7]。
- 色川武大によると、野坂昭如が逗子のマネージャーだったことがあるらしいとのこと[7]。
- 1958年頃、日本テレビでクイズ・ゲーム番組『スピードゲーム』の司会を務めていた[4]。その司会振りは“あわてん坊”との評判があり[4]、早押しクイズにおいても「どっちが早かった?」などと逗子が解答者に訊くというあわて振りで、色川武大はこの様子を「これは自分の中でベスト3に入る面白さ」だったとしている[7]。しかしこのスピードゲームの司会は3週か4週で降ろされ、後任は逗子のライバルと言われた藤村有弘となって、「藤村に代わったら番組が器用にまとまってしまって面白くなくなった」「なぜ(逗子を)降ろしたのか憤慨した」と色川は述べている[7]。