通信簿論争
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1900年(明治33年)の第三次小学校令以降、日本の学校教育では、教師の主観による「考査」といわれる成績評価が行われていた[1][2]。考査は、教師が生徒の学業の状況や素行を観察して「甲・乙・丙」や「優・良・可」といった評価をつけるものだが、生徒全員に「甲」や「優」と最高評価あるいは全員に最低評価も与えることも可能など、教師の裁量・恣意性が強く働く主観的絶対評価手法だった[1][2]。この評価は学校側で生徒の管理に用いていた学籍簿に記録されるとともに、生徒にも通知された[2][3]。
考査は、戦後の教育民主化運動の中で問題視され、1948年(昭和23年)に廃止される[1][2]。また、1949年(昭和24年)に文部省初等中等教育局長通知によって戦前の学籍簿は、指導要録と名称を改められ、当時のアメリカ合衆国で主流だった学力の科学的・客観的評価の流れに乗り、相対評価方式が導入される[1][2][4]。この相対評価方式は、集団内での学力の分布は正規分布になるという思想に基づいており、1949年(昭和24年)当初は、評価の中央区分を「0」として「+2」から「-2」までの5段評価だったが、1955年(昭和30年)の改訂によって中央区分を「3」としたものに変わる[4][5]。加えて、文部省が学校向けに発出した通達や講習会を通じて、5段階評価の中央となる「3」に38パーセント、その前後の「2」・「4」に各24パーセント、最低評価である「1」と最高評価である「5」に各7%と、評価の配分方法も広まっていく[2][4][5]。
教師は、各生徒のテストの点数と集団内の平均点数などを照らし合わせて評価区分を振り分けていき、この評価結果を指導要録に記録する運用であった[6][7]。なお、文部省で基準を定めていたのは学校内で使用する指導要録のみだったが、学校側では戦前からの慣習に基づいて指導要録と同旨の内容を記載したものを通信簿・通知表として生徒に交付していた[2][3]。テストの平均点が高いクラスに所属する生徒の努力が報われにくいなどと相対評価の限界や矛盾を指摘する意見もあり、1961年(昭和36年)改訂では、指導要録の様式や通達から正規分布図の解説や各区分への配分を具体的に指示・示唆するような表現は落とされたが、5段階相対評価そのものは継続した[4][5]。