グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会
1833年の庶民院を描いた絵
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国 は、合同法 の下、グレートブリテン王国 とアイルランド王国 の併合により、1801年に建国された。
下院に対して大臣が責任を負うという原則は、19世紀になるまでは発達することはなかった—当時の貴族院は理論上も、実際においても庶民院に優越していた。庶民院議員は、大いに異なる大きさの選挙区 の下、時代遅れの選挙方法 で選出されていた。それゆえ、有権者が7名であったオールド・セーレムの選挙区は、2名の議員を選出することが可能であった。同様にダンウィッチの選挙区でも議員の選出が可能であったが、同地は土地の浸食のために、ほぼ完全に海の中に消えてしまっていた。
多くの場合において、上院議員はまた、懐中選挙区(英 : Pocket Boroughs )または腐敗選挙区 として知られる、とても小さい選挙区を支配し、自身の身内や支持者が選挙で選ばれることを確実にすることができた。庶民院の議席の多くは、貴族院議員により“所有”されていた。1832年改革法 に始まる19世紀に行われた改革の後、下院議員の選挙方法は(以前よりも)はるかに規則正しくなった。もはや下院の議席は上院に左右されることはなくなり、庶民院議員の発言力は増し始めた。
イギリスの庶民院の優越は20世紀初頭に確立した。1909年、庶民院はいわゆる人民予算 (英語版 ) を可決し、言ってみれば富裕な地主らにとって不利益となるような、課税システムに対する変更を数多く加えた。権力のある地主らが大勢を占めていた貴族院はこの予算案を否決した。予算案への支持とそれに続く貴族院議員への不支持に基づき、自由党 は1910年に行われた二度の選挙に僅差で勝利した。
自由党のアスキス 首相は、(自らの党への)信任としてその結果を利用し、議会法案を提出して貴族院の権限を制限しようとした(首相は人民予算の地租条項を再提出することはしなかった)。貴族院がこの法案の可決を拒否すると、アスキス首相は1910年の二度目の総選挙の前に国王との内密の約束をもって対抗し、貴族院で大多数を占めていた保守党 議員を減らすために、自由党所属の数百人の貴族を創設することを要求した。そのような脅威に直面して、貴族院は辛くも法案を可決した。
1911年議会法 (英語版 ) が成立すると、貴族院が金銭法案 (英語版 ) (租税、歳出、公債について扱う法案)を阻止しようとするのを防ぎ、貴族院に他のあらゆる法案を最大で3会期まで(1949年議会法では2会期までに短縮された)遅らせること(上院の遅延権)を許した。その後、金銭法案は貴族院の反対を押し切って成立した。しかし、1911年と1949年の議会法 にかかわらず、貴族院は制限のない権限を常に保持しており、あらゆる法案について断固として成立を阻止することが可能であり、通例このような試みは議会期を延長するためになされる。[ 12]
グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国議会
1920年アイルランド政府法 により北アイルランド および南アイルランド に議会が創設され、ウェストミンスターでの両地域の代表議席は減少した(ただし、北アイルランドの議席数は、1973年に中央政府による直接統治が導入された後に再び増加した)。アイルランド自由国 が1922年に独立して、1927年に議会はグレートブリテンおよび北アイルランド連合王国議会と改称した。
貴族院に対しては、更なる改革が20世紀中に実行された。1958年一代貴族法 により一代貴族 の爵位が定期的に創設されるようになった。1960年代までには、世襲貴族の爵位が定期的に創設されることはなくなり、それ以降は、ほとんど全ての新しい貴族たちは一代貴族のみとなった。
より最近では、1999年貴族院法 により(同法は、暫定的に92名の世襲貴族を例外として、それらの世襲貴族は終身貴族院議員とすることとし、その死去に伴う補欠選挙をもって、残りの世襲貴族より貴族院議員を選出することとされたが、)世襲貴族の自動的に貴族院に議席を持つ権利は消失した。現在では、貴族院は庶民院よりも下位に置かれる議院である。加えて、2005年憲法改革法 により、2009年10月の連合王国最高裁判所の新設をもって、貴族院の司法機能 (英語版 ) が廃止されることとなった。