進鴻渓
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修学
文政4年(1821年)10月15日、備中国阿賀郡唐松村(岡山県新見市唐松)に村上吉敦次男として生まれた[1]。4、5歳で句読を受け、12歳で新見藩丸川鹿山に入門して儒学を学び、18歳で上房郡川面村藤井延年養子となった[1]。山田方谷牛麓舎に入門、後に塾頭となった[2]。
天保14年(1843年)師方谷の方針に則り江戸に留学して昌平黌佐藤一斎に学んだ[3]。同門には柳沢伯民、南摩子張、菅野狷介等がおり、また同郷坂谷子絢と交流した[1]。
仕官
4年間の留学の後、川面村に帰郷して新居を建て、私塾を開いた[1]。弘化3年(1846年)3人扶持で備中松山藩に取り立てられた[2]。嘉永5年(1852年)8人扶持中小姓[2]となり、松山城下に移り、藩校有終館会頭となった[1]。安政3年(1856年)50石で学頭となった[1]。
安政2年(1855年)苗字を進氏と改め、安政4年(1857年)山田方谷旧宅に移った[1]。
文久元年(1861年)吟味役となり、大坂に使いし、文久3年(1863年)取次役兼文武目付兼学頭として京都に赴任した[1]。元治元年(1864年)松山藩は隣藩との修好を画策し、岡山藩、龍野藩、津山藩へ使いした[1]。また、幕府に長州征討を命じられ、広島に先遣して兵站を備え、帰国後大坂に行き征長総督徳川慶勝の節度を受けた[1]。
慶応元年(1865年)有終館学頭兼町奉行、後に撫育総裁兼農兵頭隣好方となった[2]。慶応2年(1866年)朝敵として城が鎮撫使に囲まれると、井上権兵衛の副使として恭順の意を伝えた[1]。
明治2年(1869年)子昭に家督を譲り文教官、4月藩権大参事兼公議人となったが、病のため辞職し、少参事兼文教官となった[1]。
教育活動
明治3年(1870年)川面村に帰郷し、廃藩置県により藩職を辞し、私塾閑閑舎を開いた[1]。明治6年(1873年)岡山県の求めで備前天城中学教授となり、堺県師範学校教官に転じ、私塾潜竜舎を開いた[1]。明治10年(1877年)堺県師範学校を辞職後[1]、3月赤穂の人々に招かれて学校を開き、学舎東隣にあった随鴎寺に因み随鴎学舎と号した[4]。明治12年(1879年)3月岡山に帰り[5]、備中国中井村や美作国落合村で教えた[1]。
明治15年(1882年)7月11日栃木県師範学校長兼一等教諭、同日栃木県第一中学校長となり[6]、11月栃木義塾遷喬学舎設立に参加した[7]。なお、師方谷は真庭郡久世に遷喬塾を開いており、これらは詩経・小雅「出自幽谷、遷于喬木。」[8]に由来する[9]。
明治16年(1883年)5月病気のため川面に帰り、明治17年(1884年)9月3日中風を発症、まもなく結核を併発し、11月21日死去した[1]。享年64。墓所は川面町玉の坂[7]。
川面町下市場711番地の自宅閑閑舎跡には高梁小学校長横見登が居住し[10]、昭和63年(1988年)7月2日下市場金刀比羅宮境内に顕彰碑が建てられた[7]。
著書
人物
肥満であり、飲むと笑い上戸になったため、通称昌一郎をもじり笑一郎と渾名された[12]。