道徳的不確実性
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道徳的不確実性論(どうとくてきふかくじつせいろん、英語: moral uncertainty)とは、どの行為が道徳的に正しいかについて確信が持てない状況において、どのように意思決定を行うべきかを探究する、倫理学・決定理論の研究領域である。
経験的事実についての不確実性(事実的不確実性)は広く研究されてきたものの、道徳的不確実性——複数の道徳理論のどれが正しいかわからない状況での意思決定——は長らく哲学的検討の対象として等閑視されてきた。2000年代以降、テッド・ロックハート、アンドリュー・セピエッリ、ウィリアム・マッカスキル、クリスター・ビクヴィスト、トビー・オードらによって体系的な理論化が進んでいる[1]。
私たちはしばしば、何が道徳的に正しいかを知らない状況に置かれる。動物の利益を人間の利益とどのように比較すべきか、遠い他者の生活を改善する義務がどの程度あるか、新たな命を世界に招き入れることの倫理をどう考えるか——こうした問いへの答えは一義的ではない。それでも私たちは行動しなければならない。「道徳的不確実性論」は、こうした根本的な道徳的不確実性の下での意思決定規範を探究する[2]。
この問題は、事実的不確実性の下での意思決定(期待効用最大化など)が経済学・哲学で広く研究されてきたのと対照的に、哲学的検討が乏しかった。スタンフォード哲学百科事典は、17世紀の神学的論争に遡る歴史的源流があることを指摘しつつも、20世紀末に問題が再浮上し、ロックハートの著書(2000年)以降に体系的研究が本格化したとしている[3]。
歴史的背景
道徳的不確実性の問題は、17世紀のカトリック神学内における「確率論」(probabilism)論争において萌芽的に議論されていた。この論争では、ヤンセン派が「道徳的に誤りである確率が少しでもある行為は避けるべきだ」と主張したのに対し、イエズス会は「その行為を認める原則が禁じる原則と少なくとも同程度に確からしければ、行為は許される」と論じた[4]。
20世紀末には、堕胎倫理に関する議論などを契機に問題が再浮上した。現代的な意味での体系的研究の出発点として、テッド・ロックハート(ミシガン工科大学)の著書『道徳的不確実性とその帰結』(2000年)が広く参照される[5]。同書においてロックハートは、決定理論を道徳的不確実性下の意思決定に適用し、「道徳的諸理論の公平性の原則(PEMT)」を提唱した。その後、アンドリュー・セピエッリ、ウィリアム・マッカスキルらが論文・著書を相次いで発表し、研究領域が急速に発展した[6]。
主要な理論的アプローチ
最愛の理論(MFT)
最も単純な立場は、自分が最も確信を持っている道徳理論に従って行動するというものである。ロックハートはこれを「最愛の理論(MFT: My Favorite Theory)」と命名し、エドワード・グレイスリーやグスタフソン&トーマンらがこの立場を擁護してきた。しかしMFTは直観的に問題を孕む。たとえば、ある動物種Sの成員が道徳的配慮に値する確率が49%ある場合に、最も確信度が高い理論がその行為を是認するからといって、Sに甚大な危害を加える選択を取ることは無謀だと感じられる[7]。
期待選択価値の最大化(MEC)
現在の主流となっているアプローチは、経験的不確実性下の[[期待効用最大化と類比的に、「道徳的不確実性」下においても期待選択価値(expected choiceworthiness)を最大化すべきとする立場である。 期待選択価値の最大化(MEC:vMaximize Expected Choiceworthiness)と呼ぶ。 この見解は、ロックハート(2000年)、ロス(2006年)、セピエッリ(2009年)、マッカスキル&オード(2020年)、マッカスキル・ビクヴィスト・オード(2020年)らによって様々な定式化で擁護されてきた[8]。
MECによれば、行為者は各道徳理論への信頼度(クレデンス)と各理論の下での選択価値を組み合わせて、期待選択価値の高い選択肢を採るべきとされる。
理論間比較の問題
MECの最大の技術的難題は、異なる道徳理論の間で選択価値の大きさを比較する(理論間比較)ことの可能性と方法である。功利主義とカント倫理学では、選択肢の序列化のスケールが根本的に異なりうる。マッカスキル・ビクヴィスト・オード(2020年)は、道徳的不確実性と社会的選択論との類比を発展させることでこの問題に取り組んだ[9]。
- 順序尺度理論とボルダ・ルール:各道徳理論が選択肢を序列化するにとどまり、選択価値の大きさを示さない場合(順序尺度)、社会的選択論のボルダ・ルールを適用することが提案されている。マッカスキルは2016年の論文「規範的不確実性と投票問題」でこの類比を詳述した[10]。
- 感覚尺度理論と分散投票(Variance Voting):各道徳理論が間隔尺度での選択価値関数を持つが、理論間で比較可能でない場合、マッカスキルらはロックハートの「道徳的諸理論の公平性の原則(PEMT)」に代えて、各理論の選択価値関数の分散を等しいと見なす「分散投票」を提唱した[11]。
反論:懐疑論的立場
道徳的不確実性下での規範的意思決定論のプロジェクトに対しては、いくつかの反論がある。
主要概念
クレデンス
道徳的不確実性論では、エージェントが各道徳理論に対して持つ「信頼度」を確率的に表現する「クレデンス(Credence)」という概念が用いられる。クレデンスは0から1の値を取り、複数の理論にまたがって分布する。エージェントは自身のクレデンス配分を更新しながら意思決定を行うことが求められる[15]。
ファナティシズム問題
MECアプローチが直面する重要な難点として、「ファナティシズム(Fanaticism)問題」がある。非常に低いクレデンスを持つ理論であっても、その理論が非常に大きな選択価値の差(例:無数の生命に関わる問題)を主張する場合、MECはその理論に従った行動を命じてしまう可能性がある。これはパスカルの賭けに類比される問題であり、マッカスキルらはボルダ・ルールの応用によって部分的な対処策を提示している[16]。
客観的・主観的・将来的「べき」
道徳的不確実性論は、「べき(ought)」の多義性にも向き合う。フランク・ジャクソンの古典的事例(医師ジルが患者に三種の薬のどれを処方すべきか)に示されるように、「事実相対的な(客観的な)べき」と「信念相対的な(主観的な)べき」は異なりうる。不確実性下の道徳論においては、エージェントの信念・証拠に応じた規範的評価が中心的な関心事となる[17]。
実践倫理への含意
マッカスキルは2019年の論文において、道徳的不確実性の実践倫理への含意は従来の議論より広範であると論じた。具体的な含意として挙げられる論点には以下のものがある。
メタ倫理との関係
主要論文・著書
- Lockhart, Ted (2000). Moral Uncertainty and Its Consequences. Oxford University Press. ISBN 978-0-19-512610-5.
- Ross, Jacob (2006). "Rejecting Ethical Deflationism". Ethics, 116(4), 742–768. doi:10.1086/505234
- Sepielli, Andrew (2009). "What to Do When You Don't Know What to Do". In R. Shafer-Landau (ed.), Oxford Studies in Metaethics, vol. 4, pp. 5–28. Oxford University Press.
- MacAskill, William (2014). "Normative Uncertainty". DPhil dissertation, University of Oxford.
- MacAskill, William (2016). "Normative Uncertainty as a Voting Problem". Mind, 125(500), 967–1004. doi:10.1093/mind/fzv169
- Sepielli, Andrew (2017). "How Moral Uncertaintism Can Be Both True and Interesting". In M. Timmons (ed.), Oxford Studies in Normative Ethics, vol. 7. Oxford University Press.
- MacAskill, William and Ord, Toby (2020). "Why Maximize Expected Choiceworthiness?" Noûs, 54(2), 327–353. doi:10.1111/nous.12264
- MacAskill, William; Bykvist, Krister; and Ord, Toby (2020). Moral Uncertainty. Oxford University Press. ISBN 978-0-19-872227-4.
- MacAskill, William (2019). "Practical Ethics Given Moral Uncertainty". Utilitas, 31(3), 303–320. doi:10.1017/S0953820819000013
- MacAskill, William; Cotton-Barratt, Owen; and Ord, Toby (2020). "Statistical Normalization Methods in Interpersonal and Intertheoretic Comparisons". Journal of Philosophy, 117(2), 61–95. doi:10.5840/jphil202011725