作者は、かつて自分の最初の結婚と離婚とを題材とした『伸子』を1920年代に上梓していたが、その続編を書こうという意欲をもっていた。それは、離婚後、湯浅芳子との共同生活とソ連訪問、帰国後のプロレタリア文学運動への参加と運動の解体、夫となる宮本顕治との出会いと二人での生活、顕治が獄中にあったときの公判闘争と戦争に傾斜していく社会の動向を含めた大河小説になる予定であった。
百合子は、1947年から作品にとりかかり、湯浅芳子との生活と訪ソまでを描いた『二つの庭』をかきあげたあと、『道標』にとりかかった。作品は作者をほうふつとさせる〈佐々伸子〉と湯浅芳子を連想させる〈吉見素子〉とが1927年、モスクワに到着したところからはじまり、ふたりのソ連での生活、佐々一家が訪欧するというので、マルセイユに迎えに行き、そこからしばらくの西欧での家族とのあれこれ、ふたたびモスクワにもどっての素子との生活が描かれ、1930年、伸子が日本に帰国を決めるところで作品は完結する。
百合子は、新潮文庫『二つの庭』のあとがきで、『伸子』から『道標』までのみちゆきを、「ただ一本の線の上に奏せられていたアリアのような『伸子』の物語は、こうして『二つの庭』においては、小さいクァルテットとなり、やがて『道標』ではコンチェルトにかわってゆく」[1]と、みずから説明している。
『道標』完結のあと、その続編として、「春のある冬」「十二年」という題名[2]も決めて構想がねられていたが、1951年1月の作者の急逝によって、そこから先の展開はみられなかった。