遠藤常久 (実業家)
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鳥取市出身。愛媛県温泉郡北吉井村出身の弁護士・和泉漱三の三男として生まれ[1][2]、東伯郡浅津村下浅津(現・湯梨浜町下浅津)の医師・遠藤河津三の養子となる。遠藤家は鳥取藩の典医を務めた家系で、河津三には後嗣がいなかったため、常久を迎えた。
東京帝国大学法学部(独法科)に進学。在学中の1920年に郁と知り合い、翌1921年に結婚。同年に長男の正介、その2年後に次男の周作が誕生した。
卒業後は第三銀行に就職。第三銀行は1923年に安田銀行に統合されている。1926年、転勤により、一家は関東州大連に移る。
1932年前後に常久が愛人をもうけてから夫婦仲が微妙になりはじめた。1933年、周作が10歳のときに離婚した。ただし、正式な協議離婚届を提出したのは1937年で、その直後に常久は郁を常久の父・遠藤河津三の養女として迎え入れている。その数ヵ月後に常久は16歳下の女性と再婚した。
実業活動では安田銀行から安田財閥の安田興業(現・安田工業)に移り、後に代表取締役社長、会長に就任した[3]。軽井沢の泉の里に持っていた別荘から白水甲二という筆名を編み出し、『きりしたん大名 大友宗麟』という作品を遺している。
家族
- 実父・和泉漱三(1864-) ‐ 弁護士。愛媛県北吉井村西関の和泉弥八の二男。学資支援者を得て東京専門学校、英吉利法律学校に学び、1887年に判事登用試験に合格して熊谷治安裁判所判事輔、1890年大阪区裁判所判事となる。「艶福判事」の異名を持ち、遊郭から出勤するなど遊興散財で知られた。1893年依願免職し、大阪地方裁判所所属弁護士となる。1894年には出雲大社大阪分院設立に際し、出雲大社教2代目管長の千家尊愛(千家尊福の甥)より教権大輔教、少参教の任を受ける。1899年東区 (大阪市)法円坂の町議を2年務めたのち、1904年より鳥取市で弁護士業。[4][5]
- 養父・遠藤河津三(1874-) ‐ 医師[4]。三高医学部、済生学舎で修行ののち、横浜十全病院、松陰病院などに勤務、1902年浅津村にて遠藤病院開業、1933年山梨県秋山村にて村医。[6][7]。
- 前妻・郁(1895-) ‐ 岡山県小田郡笠岡町の医師で郡会議員の竹井狄郎(1849-1907)の娘。狄郎は美山村 (岡山県)に生まれ、大阪医学校、慶應義塾で学び、会社役員なども務めた[8]。兄にライオン油脂専務/日本化学飼料社長の竹井俊郎(東大応用化学科卒)[9][10]。弟の竹井素行は熊本大学工学部教授[11]。甥(俊郎三男)の竹井祐吉は日本基督教団牧師[12]。
- 後妻・秀子
- 実弟・和泉一介(1905-)
脚注
- 1 2 『人事興信録 第25版 上』人事興信所、1969年、え36頁。
- ↑ 『因幡人事興信録』因幡人事興信録編纂所、1923年、p.73。
- ↑ 安田工業の歴史 - 安田工業ウェブサイト
- 1 2 和泉漱三因幡人事興信録 荒木義雄 因幡人事興信録編纂所、大正12 p73
- ↑ 和泉漱三君近畿弁護士評伝 越山鬼城 潜竜館 明33.12、p31
- ↑ 遠藤河津三日本医籍録 : 附録・医学博士録・法規 昭和13年版 中国四国版 医事時論社、p8
- ↑ 遠藤河津三日本医籍録 : 附録・医学博士録・法規 昭和11年版 中部版 第10版 医事時論社 昭和11、p21
- ↑ 『遠藤周作 その人生と『沈黙』の真実』: 山根道公 · 朝文社、2005、p27
- ↑ 竹井俊郎人事興信録 第12版下、1940
- ↑ こめと米ぬか油工業竹下安日児、生活衛生13-1、1969、p23
- ↑ 『熊本大学三十年史 』熊本大学 -1980、p899
- ↑ 『朝ごとに新しく』(竹井祐吉、文芸社、2007)著者紹介
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