遼十三年式步槍
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| 遼十三年式步槍 | |
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| 種類 | ボルトアクション式小銃 |
| 原開発国 |
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| 運用史 | |
| 配備先 |
奉天派軍閥(東北軍) 満州国軍 内蒙軍 |
| 開発史 | |
| 開発者 | 奉天兵工廠 |
| 開発期間 | 1912年 - 1924年 |
| 製造業者 | 奉天兵工廠 |
| 製造期間 | 1924-1938 |
| 製造数 | c. 140,000[1][2] |
| 諸元 | |
| 重量 | 9.4ポンド (4.3 kg) |
| 全長 | 48.82インチ (124.0 cm) |
| 銃身長 | 29.13インチ (740 mm) |
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| 弾丸 |
7.92x57mm 6.5×50mmSR[3] |
| 作動方式 | ボルトアクション |
| 装填方式 | 5連発固定式弾倉 |
| 照準 | タンジェントリーフリアサイト(最大照準距離2,000メートル (6,600 ft)) |
遼十三年式步槍は、1920年代に中華民国で設計されたボルトアクション式小銃である。モーゼル式小銃および有坂銃の特徴を兼ね備えていた[4][5][6]。オーストリア=ハンガリー帝国で第一次世界大戦末期に設計された小銃を原型とするが、製造は主に満州の奉天兵工廠で行われた[5][3]。英語圏ではムクデン・アーセナル・モーゼル(Mukden Arsenal Mauser)やM13モーゼル(Model 13 Mauser)などと呼ばれることもある。
十三年式の原型となる小銃は、第一次世界大戦中のオーストリア=ハンガリー帝国で設計された。
オーストリア兵器廠会社(Œ.W.G., ステアー)は、1912年から第一次世界大戦の期間を通じて輸出用製品たるM1912モーゼル小銃の改良を行い、コッキングピースの防塵用の覆い、ボルト内部に収められるメインスプリング、2箇所のガス抜き穴、着脱式箱型弾倉、遊底覆を備えるモデルを1917年に完成させた[7]。改良型M1912の設計には、日本製三八式歩兵銃からの影響が色濃く見られた。これはロシア帝国からの鹵獲品が参考にされたのだと言われている[8]。しかし、戦時中はオーストリア=ハンガリー帝国陸軍向けのマンリッヒャーM1895小銃の製造が優先され、また休戦後はサン=ジェルマン条約に基づいてオーストリア国内での軍用武器の製造が禁じられてしまった[7][注 1]。
一方、1922年の第一次奉直戦争での大敗を経て、張作霖率いる奉天派軍閥では軍の近代化が進められつつあった[9]。奉天兵工廠[注 2]も拡張が進み、日本、ロシア、イギリス、ドイツ、オーストリア、デンマークなど、世界各国から従業員および顧問が集められた。小銃工廠の立ち上げを行ったのはデンマーク企業のニールセン&ウィンザーである。同社は銃身用鋼材の取引を行っていたオーストリアの鉄鋼大手ベーラーを通じ、ステアーの改良型M1912製造設備を買い取り、奉天兵工廠に導入したと言われている[1]。また、1918年から1920年にかけて、オーストリアから未完成の小銃が輸出されたとも言われている[10]。
1924年頃、すなわち民国紀元13年頃、奉天にてステアー小銃の製造が始まった。十三年式という名称はこの製造開始年に由来する[1]。工廠の責任者として十三年式の設計および製造に携わった韓麟春は、その功績から勲五位を授与されており、十三年式は彼の名を取って韩麟春造步枪などと呼ばれることもある[8]。製造にあたって何箇所かの設計の簡素化が行われ、着脱式弾倉も省略された[7]。当初は月間400丁の製造が目標とされ、後に設備の強化などを経て月間4,000丁ほどの製造が可能となった。1930年頃までに東北軍のほとんどの部隊で十三年式が配備された。1924年の第二次奉直戦争、1929年の中ソ紛争(奉ソ戦争)で実戦投入されている。奉ソ戦争での大敗後には早急な補充が求められ、1930年から1931年までの2年間で8万丁を製造する計画が建てられた[9]。
1931年には満洲事変が起こり、この際に日本軍は72,679丁の十三年式を鹵獲した[2][9]。その後成立した満州国においても十三年式の製造は行われ、1938年に有坂銃に切り替えられるまで続いた[1][11]。合計して140,000丁ほどの十三年式が製造されたと言われている[2][1]。
満州国軍も引き続き十三年式を使用し、また新規に製造も行ったものの、1937年の日中戦争勃発時まで使われていたものは非常に少なかったと見られている[2]。これは1930年代に日本製火器での標準化が進められたためである[12]。1933年、関東軍との協議を経て満州国軍の兵器整備大綱が定められ、小銃は三八式歩兵銃/騎銃に統一することとされた。騎兵装備の更新が優先され、同年のうちに5万丁の三八式騎銃が日本軍から払い下げられた。以後は年次計画に従った更新が進められた[13]。
後に蒙古聯合自治政府内蒙軍となるデムチュクドンロブ指導下の部隊でも、1929年に10,000丁を調達した記録が残っている[12]。