第一次奉直戦争が終わると、直隷派が政権を取得し、合わせて中国の武力統一を図った。1924年9月直隷派江蘇系の斉燮元と安徽派浙江系の盧永祥が衝突した(江浙戦争)。1924年9月15日、張作霖は江浙戦争に呼応し15万の大軍を結集し、二方面から直隷派の地盤である山海関、赤峰、承徳へ進攻した。呉佩孚は「討逆軍総司令」に任命され、二十万の軍隊で応戦した。彭寿莘を第一軍総司令に、王懐慶を第二軍総司令に任命した。奉天軍は無人の地を行くように軍を進め、10月9日赤峰を占領した。両軍の山海関争奪は激烈を極めた。呉佩孚は11日山海関で自ら督戦した。馮玉祥と呉佩孚の関係は悪かったので、開戦後、王懐慶は敗れた。馮玉祥は古北口に兵を止め、進軍しなかった。馮玉祥と張作霖、段祺瑞は密約を結んでいたのであった。10月23日馮玉祥と孫岳は「北京政変」を起こし、寝返り、北京に軍を進め曹錕を監禁し、旧・清朝皇室(愛新覚羅溥儀)を追い出し、「国民軍」を宣言した。また、孫文の北上を求め、孫文を主持政事に、段祺瑞を主持軍事にしようとした。この間、日本側は、陸軍・外務省の出先機関、関東軍、殆どの日本政府閣僚は張作霖援助による日本の権益確保を主張したが、幣原外相は不干渉政策を貫いている[1]。しかし、馮玉祥のクーデターは日本陸軍の出先機関の謀略によるもので、日本軍関係者が張作霖に馮玉祥を買収させ、馮玉祥に寝返るよう説得したともいう[1]。
第二次奉直戦争後の事後処理を行うために行われた天津会議(1924年)
左から梁鴻志、馮玉祥、張作霖、段祺瑞、盧永祥、楊宇霆、張樹元前線で督戦した呉佩孚は情報を耳にして驚き、軍隊の一部を率い北京へ戻った。あわせて、浙江、江蘇の直系の軍隊に北上を急がせた。奉天派軍は冷口より万里の長城を突破し、直隷軍の退路を断った。呉佩孚率いる軍隊は張作霖の軍に負け、山西省の閻錫山は京漢鉄道に兵を進め、石家荘を占領した。安徽派の将軍、鄭士琦は津浦鉄道に兵を進め、徳州を占領し、南方からの援軍の北上を阻止した。呉佩孚は張作霖、馮玉祥双方から挟撃され、華北にいる主力部隊は覆滅した。段祺瑞は呉佩孚に一通の手紙を送り、速やかに塘沽から去ることを求めた。11月3日午前11時、呉佩孚の残存部隊2千人は塘沽から船で南方に逃亡し、長江流域に到着し一地方の雄に甘んじることになった。一方、張作霖・馮玉祥などは曹家花園で天津会議を開き、中華民国執政府と国会に取って代わる善後会議の成立を決定、併せて段祺瑞を総統と総理の職を統べた「中華民国臨時執政」に推薦した。孫文は北京に入ったが1925年3月12日に病没し、政権は奉天派の張作霖の手中に落ちた。
第二次奉直戦争の規模は第一次奉直戦争のそれよりも大きく、黄渡劉河の戦い、宜興の戦い、慶元の戦い、江山の戦い、松枝の戦い、楊村の戦いなど多くの戦役があった。奉天派の勝因は多数の訓練された正規の外国籍の兵隊によるものであった。