那答応
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生年は不詳で、誕生日は8月20日である。
乾隆29年(1764年)3月22日、愉妃海氏の配下にいた「学規矩女子」(礼儀作法を学ぶ女性)が那常在に封ぜられた[1]。
乾隆40年(1775年)4月25日、那常在は何らかの理由により那答応へと降格され、冬の黒炭や炕用の薪、さらに夏の黒炭の支給もすべて停止された[2]。しかし『国朝宮史』の規定では、答応には夏は1日5斤、冬は1日10斤の黒炭が支給されることになっていた[3]。
同時に『大清会典』の記載によれば、乾隆40年には常在以下の後宮主位の葬儀はすべて内務府が取り仕切り、礼部と共同で行う必要はないと定められた[4]。
乾隆53年(1788年)3月16日、承乾宮に属する那答応の配下の官女子・五妞が、処罰を受けた後に井戸へ身を投げて自殺した。五妞の身体には木製器具による傷が8か所あり、主に脚に集中していたが、傷自体は重傷ではなかった。これは過失の罰として、那答応が物差しのようなもので打たせたものと考えられる。
乾隆帝は「井戸の口はわずか八寸しかないのに、この女子がどうやって身を投げられるのか」と述べ、他殺の可能性も排除できないとして内務府に再調査を命じた。
その後の内務府の報告では、井戸の口は狭いものの周囲は二尺四寸あり、五妞は17歳で体も細く柔らかいため、頭から落ちることは十分可能であるとされた。現在井戸口が狭く見えるのは遺体が硬直しているためであり、さらに承乾宮の宦官や宮女の証言などを総合し、五妞は確かに自殺であると判断された[5][6]。
同年4月4日、敬事房が那答応の所持品を回収したが[7]、その理由は不明である。
嘉慶元年(1796年)、内務府の記録(乾隆60年および嘉慶元年の宮分帳)には那答応の名は見えず、すでに死亡していたと考えられる[8]。彼女は最終的に答応の位にとどまったため、もし宮中で亡くなった場合は、祥答応の例にならい、皇陵ではなく曹八里屯に葬られた可能性があると推測されている[9]。
嘉慶23年の朱墨写本『星源集慶』には、「寿貴人柏氏は初め常在であり、乾隆59年12月に寿貴人の号を賜った。嘉慶年間には寿太貴人と尊称され、嘉慶14年2月21日に死去した」と記されている[10]。
一部の学者は、怡嬪の妹である柏氏、寿貴人、そして那答応(那常在)は同一人物であると推測している。この説では、彼女は乾隆10年に内務府三旗の選秀女を経て入宮し、宮女となり、乾隆29年に那常在に昇格、その後降格されて那答応となり、さらに乾隆59年に寿貴人へ昇格したとされる[11]。
しかしこの説には確証がない。例えば研究者の黄麗君は、嘉慶13年に没した白貴人が記録上「柏太貴人[12]」とも書かれていることを指摘し、彼女の姓は柏氏である可能性を示しているが、宮廷文書が未公開のため断定は困難である[13]。
現在では研究者・王冕森の考証により[9]、『乾隆至嘉慶年添減底帳』の記録から、乾隆59年10月22日に「鄂常在が鄂貴人に、白常在が白貴人に昇格した」とされている。このことから、怡嬪の妹・柏氏は白貴人であり、白貴人・寿貴人・那答応はそれぞれ別人であると考えられている。また、寿貴人と那答応の姓はともに不詳である。
出典
- ↑ 国家図書館所蔵の歴史文献叢刊『国家図書館蔵清代孤本内閣六部档案続編』第4冊『乾隆至嘉慶年添減底帳』(2005年版)、乾隆29年3月22日の条には次のように記されている。「乾隆29年3月22日、敬事房首領の楊双全の伝達によれば、愉妃のもとにいた「学規矩女子」1名が那常在に封ぜられた。同日(22日)より、冬の規定として日用の黒炭20斛、炕用の薪20斛、夏の規定として日用の黒炭10斛が支給される。」
- ↑ 国家図書館所蔵の歴史文献叢刊『国家図書館蔵清代孤本内閣六部档案続編』第4冊『乾隆至嘉慶年添減底帳』(2005年版)、乾隆40年4月25日の条には次のように記されている。「那常在は那答応へと降格され、冬の規定で支給されていた黒炭および炕用の薪、ならびに夏の規定で支給されていた黒炭は、すべて支給停止とされた。」
- ↑ 鄂爾泰等 編纂『国朝宮史』巻十七(北京:北京古籍出版社点校本)1997年版
- ↑ 『欽定大清會典事例』巻三百八十五
- ↑ 楊原 (2020年4月). 如果故宮会説話. 社会科学文献出版社. ISBN 9787520161770
- ↑ 『奏報承乾宮女子五妞投井自盡事折』中國第一歷史檔案館、故宮博物院編:『清宮内務府奏銷檔』第151冊,第247-252頁
- ↑ 『日記收賬』乾隆53年4月4日條、中國第一歷史檔案館藏
- ↑ 『呈報乾隆六十年皇帝皇太子等每日豬肉雞鴨分例並銷銀數目清單稿』,嘉慶元年,檔案號:05-0462-076,中國第一歷史檔案館蔵;『呈報嘉慶元年太上皇帝皇帝等毎日盤肉雞鴨分例並銷銀數目清単稿』嘉慶元年,檔案號:05-0462-080,中國第一歷史檔案館蔵。
- 1 2 王冕森 (2022-09). 清代后妃雜識. 上海: 上海社會科學院出版社. p. 437-438. ISBN 9787552038200
- ↑ 謝博雲.(2021).康雍乾時期漢妃研究(碩士學位論文,廣西師範大學).https://kns.cnki.net/KCMS/detail/detail.aspx?dbname=CMFD202201&filename=1021616754.nh 引用 [清]宗人府玉牒館纂修:『星源集慶』清嘉慶二十三年硃墨寫本 第69頁
- ↑ 趙玉敏.(2011).乾隆帝後宮中的漢女妃嬪. 蘭台世界(25),24-25. doi:10.16565/j.cnki.1006-7744.2011.25.017.
- ↑ 嘉慶十六年十月初七日造辦處燈裁作,〈為實銷成做柏太貴人焚化應用畫五彩流雲宋龍立水紙朝衣等項用過工料銀兩事〉,中國第一歷史檔案館藏『內務府呈稿』 檔案號:05-08-030-000094-0010。
- ↑ 黃麗君「乾隆皇帝的民人嬪妃」,頁81,収録『新史学』第三十一巻 第三期 2020年9月